七組  片柳梁太郎


 高商生活の一部にある就職予備校のようなムードに反発を感じて、私達が一橋を受けようと決心したのは、たしか昭和十三年の十二月に入ってからであった。さて決心をしたものの、どういう試験があるのか、どういう勉強をしたらよいのか分らずそれこそ全くの一夜漬の状態で、とも角合宿でもしようじゃないかということになり、幸い木村増三の家の別荘が国府津にあったので、佐藤丈夫と私の三人が正月をはさんで冬ごもりをすることとなった。

 家の構造やら何やらは今定かには憶えていないが、場所は御殿場線が東海道線と別れて直ぐの蜜柑畑を背にした南向きの台の中腹にあった。眼下には広がる枯田の向うに箱根連山と、やや右手に真白に雪の積った富士を前にして、決して新らしいと も豪勢ともいえないが、ゆったりとした日当りのよい家であった。この家にフトン袋と若干の日用品、それに肝心の参考書、 勉強道具などを持込んで三人の自炊生活が始まった。何しろキャンプ生活以外自炊をやったことのない私達のことだから掃除フトンの上下、三度の飯仕度、風呂焚等なかなか大変だったが、佐藤が変に世帯じみた知識を持っていて、あれこれ指図し、 それぞれ当番を決めて「家事」をつとめることとなった。

 冬のあまり火の気のない、ガランとした部屋のこととて座敷の中に入ると寒かったが、縁側のガラス戸を背にして坐るとポカポカと暖かく快適だ。このような姿勢で中山先生の「純粋経済学」猪谷善一氏の「日本経済論?」その他どんな本だったかよく憶えていないが手当り次第に読み耽った。簿記会計学の本も目を通したように思うが、語学は特別どんな勉強をしたか、よく憶えていない。とに角何とかまともに本を読み、整理し、議論をした。堅苦しい本にあきた時は縁側の日だまりで文学書や哲学等の本をひもどいたり、あまり上手でない短歌を詠んだり、語り合ったり、思えはこんなに束縛されない楽しい時間を その後幾度持つことが出来たであろうか。

 さて四時頃にもなると買出し兼散歩にお出掛けだ。我々は波の荒い冬の国府津の浜を波打際に沿ってよく歩いた。沖に白い波頭が立ち、遠く伊豆半島が青く澄んで見える、人気のない浜の美しさを満喫した。やがてひなびた国府津の町並に入って、 肉、野菜、豆腐、味噌、醤油、木炭、それに最も大切なものだが酒などを買い漁る。夕食は面倒なのでスキ焼をやることが多かった。ネギは裏の畑から少々失敬することも多く、時には食後のミカンまで裏山から頂戴することもあった。食事の準備をするのはむしろ楽しくさえあったが、あと片付、洗い物には少々閉口した。調理の方法について意見が分れ、議論をしたことも度々だった。また鍋物ともなれば、つい一杯二杯と盃を重ね、おのずから議論のうちに夜を過した。

 正月には佐藤だけが帰宅して、二人ボンヤリと硝子戸の中から富士を見て過した。直ぐ眼下の森の中に天神様の社があり、その白い尾根に朝日が映えていたのが美しく見えた記憶がある。木村がここで二三首秀れた短歌を詠んだが、どんな歌だったかは憶えていない。

 山をおりて(実際には山でもないのだが、その実感がある)一ヶ月半ばで試験の日を迎えたが、その前の日はこの三人と死んだ出合と(或は戦死した太田も一緒だったか)で新宿で大いに前祝いをやり、翌日国立の瓢箪池のほとりで、試験間際まで本と首引きになっている受験生を馬鹿のように見たのは若気のいたりであった。

  死んだ出合のことについては書き出せば尽きない想い出があるが、彼は年令からいっても、またその豊富な人生体験からいっても、私の持ってないものと、それにも増して深いあたたかさを持っており、互いに異った道を歩きながら、終生忘れることの出来ない友人であった。彼にはもっともっと長生きをして、彼でなくては得られないインフルエンスを与えて欲しかった。

 一橋に入学して私が今更のように驚き、且つうれしく思ったことはこの大学は世の通常の大学という既成観念とは一寸違うということ、すなわちよくいわれたように真の友人の得られるのは高等学校生活のうちだけで、大学では全く個人と個人のつ ながりしか得られないという固定観念を完全に破って呉れたことだ。横浜からは前記の三人のほか数多くの学友とともに一橋に入り、その交友は今日まで変らず続いているが、大学に入ってからも、ゼミナールを通じて、或は文化部等で、或は集会所で、或は夜の飲み会で、更には軍教の野営ですら多くの良き友を得ることが出来た。この中でも井上一造、小池真登君等亡くなった友の印象は特に忘れることができない。

 今日十二月クラブとして、ますますこの交友関係を深め、且つ広めることが出来たことはクラブの創立に尽力された諸兄のお蔭と、心から感謝する次第であり、今後とも終生離れることのない交りを続けて行きたいものと痛切に思っている。