一、大学時代
私は海軍から委託学生として商大に派遣されましたので外の人とは違った想い出があります。 その内の二、三を記すと
(一)教練の免除
昭和十四年の四月の上旬、学生課長の大刀川先生の処に御挨拶に伺った処、「授業、試験その他一切学生と同一であるが、 教練も受けるか」とのことであった。私は中支の最前線から帰って間もない時であったので、「私も陸軍の教官と一緒になって教えましょう」と云った処、大刀川先生周章てて、それには及ばぬと云うことで教練免除になって大いに助かった。
(二)ゼミ対抗の柔道試合
入学して間もなく、各ゼミ対抗の柔道の試合があった、それには1年が出ることになっているとのことで私も井藤ゼミを代表して出ることになった。出場してみて驚いたことは皆黒帯である。大学の柔道は寝業が多いと聞いていたので、立業主体の私としては、一礼して立ったらすぐ投げなければ、こちらがやられると思って最初の人は立あがると同時に投げた。処が実に綺麗に決った。その調子で後二、三人程投げたら優勝と云うことであった。余り弱い黒帯なので後で聞いてみたら黒帯は皆借り物とのことで、本当に悪いことをしたと今でも思っている。三十年後にお詫び申上げたい。
(三)服 装
服装は別に制限がなかったので学生服や軍服も時々着たが殆ど背広で通学した。その為毎年一月の下旬から二月に掛けて良 く先生に間違えられて試験の範囲を聞かれて困ったのを憶えている。
(四)卒業式後の総員見送り
私は卒業と同時にフィリッピンの経理部員兼軍需部部員を命ぜられ、式終了後直に呉に直行、そこで軍需品搭載中の軍用船で戦地に行くことになっていたので、卒業式後の記念撮影が終ると同時に皆の前に出て三年間の御礼と今から南方の第一線に行くことを告げ、皆さんに見送られて校門を出て行ったのを今でもハッキリと憶えている。十二月クラブ員の中で出征第l号であった丈けに卒業式を終えたばかりのクラスメートに対するショックは大きかったのではないかと思う。
二、戦 争 中
(一)戦 地
フィリッピンの戦斗は私の居た間は、大したことはなかった。私共は南方作戦の補給基地を作る目的でマニラからダバオに進出して米や野菜、味噌や醤油の製造迄やって艦隊に補給することになっていた。ダバオ在留邦人(主としてマニラ麻を作っていたお百姓)の協力を得て、陸稲と大豆を植えて約三糎程になって喜んでいたところ、バッタの大軍に襲われて見る見るうちに食い尽されたのには驚いた。バッタが飛んで来たら「天日為に暗し」と云うことが「大地」に書いてあるそうだが全くその通りで手のつけようがない。かくて内地から大事に持って来た米も大豆も、又私共の苦心も皆水の泡と消えて、広々とした畑の中で部下と一緒にバッタを踏み殺し続けたのを憶えている。
フィリッピンでは牛、豚、鶏など非常に少なく、またたく間に喰べ尽して仕舞ったので、動物性蛋白質としてワニの肉を食べてみて、よければ之を補給しようと云うことになった。
ワニの肉は白味でサッパリした味で、鶏の笹身の様であった。その矢先、艦隊司令長官が来られたので鶏の笹身と称してワニのスキ焼を御馳走して大変喜ばれたのだが、後で白状してイヤと云うほど参謀と副官に怒られた。
一方日本人はワニを食うと云うことが、フィリッピンの…族と云う人喰人種に知れ渡り、「日本人が来たら逃げろ」と布令が出たのには驚いた。ワニの次は自分達が食われる番だと思ったのかも知れない
(二)海軍経理学校教官時代
戦地から呉経理部部員になって一年足らずで今度は経理学校の教官となった。大学出身者丈けの補修学生の教育を受け持った。私共が大学三年の時の連中が学生で入って来たのである。商大出身者は国立で良くみかけた顔の教官が居るのでホッとしたらしいが、途端に大声で怒鳴られて勝手が違うのに皆がっかりしたらしい。学生の中に同級の然も同じゼミの西堀君(現軍縮委員会大使)が居たのには驚いた。西堀君の分隊監事と分隊士に、「西堀学士は俺の商大の時の同級生だから大事にして呉れ」と頼んでクラスメートの友情丈けは忘れなかった積りである。
翌年、入って来た学生は所謂「学徒出陣」のクラスで、海兵團で兵隊に教育されてから経理学校に来たので、学校に来た時は可成りその影響が出ていた。その為伸び伸びとさせるのに苦労した。
経理学校の教官をしたお蔭で教え子は全国至る処に居り、それが殆ど皆立派になっている。官界では、各省の局長が約二十名、大学教授も三十名以上居る。知事や代議士、判検事、弁護士、公認会計士等色々の職業についているが、一番多いのは実業界で、ブリッヂストンの石橋社長、鹿島建設の渥美社長、仁丹の森下社長等有名人も多いが、大会社の部長以上か一番多い。
今でも皆と非常に親しくしている。時々地方に行くと歓迎会を開いて呉れる。実に嬉しい。
(三)海軍省時代
経理学校で二期の学生教育を終えて、海軍省の経理局局員兼軍需局局員を命ぜられ所謂「呂」の資材担当の先任局員になった。
「秋水」と云う特殊な飛行機の燃料を作る軍需局特薬部の資料班で、資料の調達をやった。陸軍、海軍、軍需省か一体になってやった仕事で、部下には海軍の技術士官、陸軍の技術士官、軍需省官吏その他色々の人が居た。
当時全国から集めた白金は、皆私の処で使用することになっていた。之はB29を打ち落す飛行撥の燃料を作る部署で非常に苦労したが、この飛行機は、一分間に一万メートルの高度に達し、B29を機関砲一発で打ち落して、降りる時はグライダー式に滑空で降りて来ることになっていた。試験飛行の時、熱海の旅館を吹き飛はしたり、茅ヶ崎の駅を吹き飛ほしたり、色々あったが完成したのが終戦の日で実に残念でならなかった。完成がせめて一年早かったらと今でも時々思う。
前述の白金は全国から三屯以上集ったが一部を使った丈けで、残りは米軍の命令で全部日本銀行の地下金庫に入れた。
三、終 戦 後
(一) 混乱期
終戦後は、今迄威張っていた罰で、散々苦労した。終戦時、自分の生活でも手一杯なのに私の部下だった人々の生活も考えなければならなかったので、三菱化成からの親切な御採用の話も涙をのんで断った。部下の人々は化学屋が多かった。
先づ最初に始めたのは戦争中陶磁器関係も取り扱っていたので、食器類の卸売であったが、元気な若者はかりだったので、食器の取り扱いが乱暴で荷扱いの時、破損品が余りに多く、一年足らずでやめて仕舞った。然し給料が払えそうでない時に、
日本碍子鰍フ野渕常務(後の社長、故人)に「ノップ碍子一車頼む」と電報打ってその利益で皆の給料が払えて本当に有難かった。今でも深く感謝している。
それから葉山の海軍の疎開工場を借用して油絵具、水彩絵具、クレオン等の生産に並行して、化学屋はズルチンの生産をやって露命をつないだが、その内戦前からの絵具屋が本格的に出て来て段々と我々は後退せざるを得なくなった。最後は地方の問屋の不渡手形で参って仕舞った。此の絵具屋のメンバーが現在、日本碍子の専務、日立粉末冶金の社長、日本揮発油の常務お茶水女子大教授等になっている。然しこの失敗は、私には実に良い薬になった。
(二) 安定期
その後、 一時他人の飯を食って、三十一年に自分の小さい会社、昭和交易鰍設立して今日迄順調に伸びて来ている。此の会社は自分が殆んどタッチ出来ないので期末に利益が出ると、大体半分を皆に期末賞与として支給するので賞与は年三回である。仕事をまかせられ、然も賞与が年三回と云うことが若い人々の共感を呼んだのか皆実に良く働く。
三十二年に大阪の木村鉛鉄梶i現木村化工機梶jの社長から或る仕事を頼まれ、一応片付けた処、日本蓄電池製造鰍フ副社長に就任して会社の立て直しをして呉れと頼まれたので色々調べた結果、何とか出来そうな気がしたので、蓄電池に詳しい社長を先生としてつけてもらって引受けることにした。会社の立て直しを大体終了した処で日立製作所の倉田社長に頼んで系列
に入れてもらった処、株価が六〇〇円を越して改めて日立の信用と有難さを痛切に感じた次第である。
そして四十年に社長となり、四十三年神戸電機の大株主である日立化成鰍ゥら両社対等合併の話が出て、四十四年四月に合併、社名も新神戸電機鰍ニなり私は会長と云うことになった。
一年後、日立バッテリー鰍フ社長も兼ね今日に至った。
その間、資金関係、人間関係等色々と苦労が多かったが、中でも土地買収の苦労は今でも忘れられない。最初私と地主の間には共通の話題がなかったので仲々話が進まなかった。それで私は牛や豚の勉強をして地主であるお百姓さんとの共通の話題の土俵を作ったのであった。その為かそれからは話がスムーズに進んだ。
現在の親子の断絶も、両方に共通の話題の場がないからではないかと思う。ひどい親になると子供と一緒に食事することす ら殆んどないという。これでは子供が赤軍派に走っても親には分らないだろう。
四、 亡友 内田三十郎君 (旧姓並木) の想い出
(三十年十月二十四日死亡)
どういうことから親しくなったのかは忘れて仕舞ったが、何時の問にか週に一回は私の家に来る様になった。本当に真面目な学生で、家に来る時は大概着物で
袴をはいて何時も正座していた。来ると大体夕食迄いて上等のテキを所望して、俸給日前には新婚早々の家内を困らせていた。
英語が得意で外交官を志望したが二回共、高文試験に失敗した。
私も時々英語を教えてもらった。
卒業後海軍の補修学生になり、後に私が反対したのに永久服役を志願していた。
主計大尉の時、航空母艦に乗組み、戦斗中に負傷してそれがもとで終戦後も
長い間、国立病院に入院していたが、のち義母の反対を押し切って附添っていた看護婦さんと結婚して長野県の温泉で長いこと療養生活をしていた。
その後、個人で事業を営んでうまく行っている様な話であつた。
私の事務所に来た時、薬の副作用で顔が真黒になっていた。
それからしばらく連絡がないので尋ねて行った処、亡くなつていた。
実に誠実な人だった。
姓名判断を良くして呉れたが嫌なことでも平気でズバリいう人だった。
いつか私の長男の姓名判断をして「十才で夭逝する」と云ったので「そんなことが分るものか」と笑ったのであるが、長男は彼の言った通り、十才の時、学芸大の
附属の四年生の時、プールで心臓麻痺で死んだ。
それで私も次女の名前は姓名判断でつけた次第である。
彼は横浜の人で、横浜には未だ兄弟が居る筈である。家業は印刷屋と聞いていた。今頃生きていてくれたら私の良い相談相手手になっていたと思う。戦争の尊い犠牲者である。
以上思い出すまゝに書いたが、私は一橋に入学出来たことを今でも非常に感謝している。(委託学生は、東大でも京大でも本人の希望で大体入学は許可された)その為に多くの友を得たことは何物よりも有難い。 十二月クラブの人々を始め海軍で教えた人々との友情は今後共益々大事にしたいと思っている。
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