四組  二見 正之


  吾々が予科に入学した昭和十一年にベルリン・オリンピックが開かれた。「前畑頑張れ」の名調子が今にも残る民族の祭典であった。あれから三十六年、西独ミュンヘンでオリンピックが催されている。日本選手の活躍も目覚ましい。

 吾々の生きて来た過去を振返ってみると、現在五十三、四才が大部分であるが、丁度昭和二十年終戦の年を境にして二十七年づつ生きて来た勘定になる。前半についてみると、吾々の生れた年が第一次大戦の終結時であり、大正十二年の大震災、昭和二年の金融恐慌、昭和六年満洲事変、昭和七年五・一五事件、十一年二・二六事件、十二年支那事変、十六年太平洋戦争と海外侵略路線をひた走りに進んだ二十七年間とも云えよう。後半の二十七年、兎にも角にも平和に過し得たのは幸せという外はない。今NHKでやっている新平家物語に見ても、平家の天下はたかだか二十年に過ぎない。ベトナムをはじめとして世界の各地で紛争は絶えないが、日本の中でこんなに長い期間にわたり平和を享受し得るのはなんとしても有難いことだとつくづく思う。さて昭和十一年、あこがれの商大予科に入ってより、青春を過したよき時代について思いをはせると、喜びにつけ悲しみにつけ、独り静かにはたまた友と肩を組んで、多感な気持を歌に託したのは青年期特有のエネルギーの発露であったと思う。丁度一橋寮の開設にめぐり合せた吾々は、寮歌の作成からはじめたが、今に残る「紫紺の闇」、「故郷の春」、「霏々散乱」の三 曲がそれである。伝統の歌、「一橋会歌」、「一橋の歌」、「君よ知れりや」、「東都の流れ」、「遠漕歌」などは事ある毎に繰返し唱われた懐かしのメロディである。旧制高校の寮歌、一高、三高、北大などのそれもよく歌われた。与謝野鉄幹の「人を恋うる歌」”妻をめとらば才たけて”と三高寮歌の曲に乗せて未来のよき伴侶を夢みた時でもあった。

 一方流行歌の数もおぴたゞしいものがある。私などは昭和六年中学に入った年に流行した「丘を越えて」が忘れられない。

 ハーモニカを口にしてこの曲の軽快な前奏をよく練習したものである。古賀政男・藤山一郎のコンビによる「東京ラプソディ」 (昭和十一年)「青い背広で」(昭和十二年)も若い男女の洒落た青春歌であった。道中物の「旅笠道中」(昭和十年)「妻恋道中」(昭和十二年)も忘れられないなつメロである。楠木繁夫の歌った「緑の地平線」(昭和十年)は寮の部屋で望月君に教わった歌だ。小平の麦畑をさまよってはセンチになったことを憶えている。 洋物の移入も盛んな時代だった。少し拾ってみると、「ダイナ」、「小さな喫茶店」、「パリ祭」、「暗い日曜日」などがすぐ浮んで来る。昭和十二年ゲッツイ楽団による「碧空」の大ヒット、喫茶店ではどこでもこの曲を演奏し、吾々青年を甘美な世界に誘ったものだった。ミュージカルの傑作「ショーボート」の主題歌”オール・マン・リヴァー”も忘れられない思い出がある。故松本信喜君が茶色の厚紙に白インクを使ってこの歌を英語できれいに書いて呉れたことだ。実に美しい文字である。今に手許に保存している。洋物と云えば、吾々四組が記念祭に出演したカーボーイ姿の野外舞踊も目に浮ぶ。その時の踊は間宮君の肝入りで花柳徳兵衛さんが振付けし、ドイツ民謡「乾杯の歌」を高らかに唱った。これも故人になったが岸博太郎君があの大きな身体で先頭に立ち、麦藁帽にロイドめがね顔を紅潮させこの歌をいい声で歌い上げたことが印象に残っている。

 私は予科三年からヴァイオリソを手にし、以后卒業まで音楽部で過した。べ−トーヴェンの交響曲も三、六、九番を除いて 全部手掛けたし、コーラスも二番テノールで張切った。今はヴァイオリンも手にすることもなく、思い切り声をはり上げることもない。音楽の世界も入ロをうろうろし、中まで入り切れなかったうらみが多い。

 歌は世につれ、世は歌につれと云うが、想い出のメロディは同時代の人々が持つ共通の財産であり、吾々同志が温め合うも のだと思う。