三組  片山 光夫


学校を出てから既に三十年経つ。実に早いものだ。住友金属へ入社したが、二週間勤めただけで陸軍二等兵。四年間の軍隊生活も半年間北支の幹部候補生隊にいただけで大半は内地勤め。終戦の年に郷里広島の師団司令部へ転属したが、四月には原爆を避けるように北九州へ。全く悪運が強い。(もっとも家族と共に家を失ったが)復員して銀行へ、転属。よもや銀行員になろうとは。銀行員らしからぬ奴と云われ乍ら二十有余年どうにか勤めあげた。昭和四十四年春から鞄建設計で第二の人生スタ ート。今迄と違う技術者の世界で苦労も多いが、何とか頑張っている。    

 最近サッカーが盛んになったが、小学校からポールを蹴ってきただけにうれしい。昔に比べるとラフ・プレーがなく技術的にもうんと向上している。この年になってもその味が忘れられず、社内大会には顔を出している。何くそと思うがもうお年で今一歩のところで身体が意の如く動かない。翌日は足腰が痛く「いい年をして」と皆に笑われるのだが。鳴呼!

 生来健康に恵まれた方だが、身体には日頃十分注意している。時々ドック入りもするし、肥らないよう節食に努力している。 酒も年と共に弱くなったが、毎日水割二、三杯程度。これといって健康法はやっていないが、強いて云えば早寝早起。子供達にはいつも笑われるが、全く幼児並みで大体九時には床の中にいる。昭和十一年予科に入った早々、新宿の武蔵野館の前で手相を観てもらつたが、その時七十三才迄生きると云われ、今でもそれを信じている。