七組  羽鳥 忠ニ


  北海道の田舎者が、末は外交官か大学教授を目指し、希望と野望に燃えて入学したのが今から三十三年前の事です。併し入学后早速あたりを眺めますと、何づれも秀才ぞろい、ゼミナールで中山先生から、クールノーの「富の理論」をやれと言われ フランス語は出来ませんと答えた頃から学者になるのにも絶望。なんと意気地なしだった事か。一方語学がつくづく劣ること (これは商業−高商と歩んで来た事にもよると後で感じています)も判って、高文外交科受験も断念、それからと言うものは名講議以外はあまり教室に出席せず、TONYに所属して専らグラウンドで野球をやる事、玉突き、麻雀、おでん屋通い、社会学?の方は相当身につけて卒業しました。

 然かも繰り上げ卒業ですぐ入営しなければならない事も判っていましたので、今から思えば多少ヤケになっていたのでしょ ぅ。文学青年だった私にとって大切に殆んど揃えていた岩波文庫の赤版や青版、有名作家の小説単行本や洋書の類まで売り払って、所謂、社会学や人間学特に女性研究に費やしました。

  後年、実社会に出て私に役立ったものと言えば曲りなりにも一橋を出たと言う誇りと、学外で勉強した人生勉強が実際面の応用にあたり、相当あづかってカがあったと思っています。

  恩師、中山先生に見ならった事と言えば子供は女の子ばかりと言う事だけ、併しそれも長女が数年前に嫁ぎ、今では、健介知幸と二人の孫は男性に恵まれましたので、これ等男性と遊ぶのが楽しみで孫達の来るのが待遠しい今日この頃です。

 仕事の方は鉄及び機械関係で殆んど営業畑を過してきましたので、習い性となり、酒、タバコ、夜ふかしの習慣はすっかり板について終生、マイホーム主義は、私には無理の様です。

  昭和三十六年から三十七年にかけて会社から初代の海外駐在員としてニューヨークに駐在、帰国後も現在迄にヨーロッパを 除く殆んど世界中の国々(中国、中近東、中南米、アフリカ諸国、濠洲、インド、イラン等々)を歩き廻りましたので少しは視野も広くなったと思っています。私の会社の発行する機関紙に掲載した「中国の旅」「ニューヨークの思い出」等は、私に取っては可成の力作?の積りですが「何をしに行ったのか判らない」と言う批判も受けました。ボンボンは終生直らない様で す。

 そろそろ停年ですが、会社では「今少し残れ」との内示もあり外に取り得のない私つくづく身の程も知りましたので、仰せの通りもう少しサラリーマン生活を続けてみる考えです。

 将来の事と言えば、子供達が片づいたら、愛妻?同伴で、時間にしばられない最低三ヶ月位のヨーロッパ旅行、ギリシャから始ってヨーロッパ各地を漫遊してみる事、これで地球上は全部わかった、月の世界は断念しよう、と言うのが私のはかない望みです。後は細々と余生を送り度い考え、きっと如水会十二月クラブに顔を出すのが唯一の楽しみとなる事でしょう。

 皆さんよろしく。