(一)
青春彷徨というのは、あのころはやったヘッセの小説の、邦訳の題名である。だが、われわれの青春彷徨は、戦中彷徨であった。二・二六の年に予科入学、太平洋戦争開始の月にくりあげ卒業第一号。それで名前も十二月クラブという次第だ。卒業アルバムに山田雄三教授が「無力な親父の借金を引受けて、緊褌一番する。これが今日の諸君達の運命だ。」とかいたのをみて、
ずいぶんおもいきったことをかいたものだとおどろいたが、それがひとつの実感であった。借金の引受けをなんとかのがれようとして、臨時徴兵検査のまえには、いまの女性以上に、体重をへらすのに苦労した。
さて、その卒業アルバム、ぼくのは、戦災でやけてしまったが、はじめの方に、詩をかいた記憶があるので、望月にたのんでみせてもらった。いくつかあるらしく、三ページの「あのとき野は陽に輝いていた村はずれの道ばたに樫の木が黄色な花粉を流して若いいのちの物語をささやいてくれた」なんていうのが、そうだろう。いまではとてもはずかしくて書けはしない。若いというのは、いいものだし、おそろしいものだ。もうひとつ「学園の歌」というのが八ページにあって、はじめの二行をみたときは、これがおれのかとおもったけれど、つぎをよんでいったら、やはりそうだった。あとの部分は、あれから三十年、記憶はすこしぼけたが忘れたことはない。
さみどりの風野にあふれて
青春の花咲ける園 わが学園
こここそは心のふるさと
幻影と真理を追いてさすらえる
若きたましいを育くみし園
見よ きょうもかの時計塔は
永劫の空にそびえて我等につぐ
Tempus Fugit さなり 時は過ぎゆく
我等また歴史の激流に身を生きて
苦しみの幾夜をすごせしことぞ
されど思え あれ狂う嵐の中に
さらばわが学園よ 心のふるさとよ
栄光 とこしえに汝と共にあれ
いまの国立や小平をあるいて「さみどりの風野にあふれて」なんてかいたら、誇大広告もいいところだが、
あのころ、とく に予科と津田のあいだは、そんな感じだった。そのさきに津田があったからではないだろう。ところがごらんのように、この詩は、はじめがあかるいだけで、あとはくらくなっていく。予科にはいったときの解放感と、開戦による繰り上げ卒業を象徴するように。「あれ狂う嵐」のなかには、新聞部員として接触していた多くの知識人の検挙、すでに分散状態にあった学生運動への弾圧が、ふくまれていた。 All
Students of the World Support China というリーフレットが、一橋新聞の編集室にもちこまれたこともあった。そういうくらさを考えると、さいごの二行がおかしい。あかるすぎるのである。
「いまだから話そう」式にいうと、もとはつぎのようになっていたのだ。
さらば学園よ 心のふるさと
ここをすぎて我等いずこへ
戦場へ はたまた虚栄の市へ
「心のふるさと」のあとに「よ」をつけなかったのも、くらさの効果を意図したからであり、つぎの二行は説明するまでも ないだろう。
では、なぜこうなったかというと、アルバム編集委員のなかの、和田(総務)と間宮のおもいやりであった。ぼくの身柄だけではなく、まかりまちがえば、アルバム自体があぶなくなる。そこで二人は前記のように訂正して、ぼくに事後承諾をもとめた。戦争についての意見は、二人とぼくとではちがっていただろうが、この詩を原文のまま出したばあいにおこりうる直接的効果については、(なにしろ可能性の判断だから)、意見のひらきはあまり大きくなく、ばくは訂正を了承した。そして、発行まもなく常盤敏太教授がこの詩の二節の後半をさして、「こんなことをかく学生がまだいたのかね」といったという話を
きいたとき、あらためて二人の配慮に感謝したのであった。われわれすべては、まさしく「歴史の激流」のなかにあった。それぞれの判断でその激流に棹さしあるいは漂よい、三十年間を生きてきたのである。
ここでアルバム余談をもうひとつ。また間宮をひきあいにだして恐縮だが、アルバムのなかに中央線の車内風景があって、 その中心人物は間宮である。かれの隣に津田のお嬢さんがいる。これが現在、一橋大学経済研究所長山田秀雄教授の夫人、晴子さんなのだ。周辺の女性にはことかかなかったはずの山田先輩が、なんでこんな平凡なルートをとることになつたのか(平凡だというのは方法のことであって人物のことではない!)よくわからないが、とにかくこのアルバムの写真をかれのうちにもっていって両親にみせたことから、話がはじまった。おかげで今日にいたるまで、すくなくともこの点では、先輩もぼくに
は頭があがらない(はず)なのである。
(ニ)
卒業後一年間、ぼくは駿河台と後楽園にあった東亜研究所で、特別第一委員会英米班に属し、馬場啓之助主査のもとで、アメリカの戦時経済の調査をしていた。もともとあまりやる気がないうえに、幸か不幸かろくな資料がない。開戦前の「ミネラルズ・イヤブック」なんかひっくりかえしたって、そのときの生産量がわかるだけで、「戦時経済」そのものはどうにもならない。とても部長の海軍中将のご希望のように、帝国海軍の戦果によってアメリカの石油の海上輸送力が低下し、生産と作戦に重大な打撃をあたえた―という報告書はかけないのである。
ぼくは毎日出勤して、午前中だけ本をよみ、午後は資料さがしと称して、古本屋をあるきまわった。じつは、直接に役にたつ資料なんかありはしないのだが、未完で提出した卒業論文をかきあげるためのヨーロッパ思想史の本をさがしていたのである。おかげで、神田、本郷、早稲田あたりの古本屋には、学生時代以上のつきあいができた。
ところが、夏のおわりごろから、研究所からジャワ軍政監部へ派遣される話がはじまり、また運命の十二月に、軍刀をさげて輸送船にのることになってしまった。卒業論文は、とにかくぎりぎりにかきあげ、清書をゼミの後輩にたのみ、神戸で乗船したのだが、そのとき鞄のなかに、ゼミでよんだホップスの「リヴァイアサン」と、京大にいた従兄弟がくれた茂吉の「暁紅」
とヘミングウェイの「武器よさらば」をいれていたということは、どこかで伝説化している。ヘミングウェイをいれたのはレジスタンスのつもりだった。しかし、あとでわかってみると、ホップスの方が、途方もなく巨大で強じんな、レジスタンスの原理を展開していたのである。
輸送船安芸丸のなかは、もちろん戦時気分が半分ぐらいはあって、とくにこの高速独航船が深夜の海を二十ノットちかい速力で蛇行続けるとき、目をさまして、ああ戦争だなとおもったし、夜になると恐怖で顔が紫色になる陸軍司政官もいた。しかし、あとの半分は、ぼくらにとっては大学の延長みたいなものだった。飯上げ当番で後甲板にならんでいると、「どうも助教授はだめだな」などと苦笑しながら、板垣与一さんがやはり当番であらわれたりした。シンガポールとマラヤを担当する東亜経済研究所の連中といっしょだったのである。
「助教授はだめだ」というのは、帝国陸軍では将校は一人まえにあつかうのに、位階勲等が尉官とおなじであるはずの助教授は、下士官あつかいで、この貨客船では、船倉のかいこ棚につめこんでしまったからである。もちろんぼくは、形式が曹長なみだから、実質は兵なみのあつかい。ところが、客室の方には、佐官待遇の教授たちがいて、かれら専用の上甲板のサロンでは、午後になるとビールがでる。赤松所長以下、杉本、高橋、石田教授たち(だれかは先発で空路赴任した)のところへ、でかけていけば(でかけていくような顔をして鉄のはしごをのぼれば)、毎日ビールがのめるのである。軍律きびしいなかで南シナ海の青さをながめながらのビールはうまかった。
シンガポールで年を越して、こんどは第一次大戦のときにつくられたとかいう老朽船にのせられて、スラバヤへむかった。朝日新聞の内藤先輩(故人)がジャカルタへ転勤というので同船していたのは、戦意まったくない軍属にとっては助かったがこの船は速力十ノット以下、船底には火薬をつんでいるとかで、潜水艦にみつかったら、救命胴衣などつけてもむだなのだった。スラバヤ到着の直前、「敵艦みゆ、全員救命具つけ」の命令がでて、かくごをきめて夜あけの甲板に整列したら、味方の駆逐艦が発火信号をしながら遠ざかっていくところだった。心配してスラバヤ港からむかえにきてくれたのを、敵艦と誤認したのだそうである。
こうして悪運つよく、昭和十八年一月にジャワについてから、二十一年五月に紀伊の田辺港にかえってくるまで、約三年半は悪運つよい日々の連続だったといっていいだろう。つぎに、そういう日々のおもいでをいくつか書いておきたい。
(三)
ジャカルタについて、最初にしたことは、本の収集であった。軍政監部調査室勤務だから、本をあつめるのは一応あたりまえだが、勤務上必要な資料は、この調査室がおかれたもとの中央統計局にそろっていたので、ぼくはもっばら、自分の勉強のための本をあさっていた。繁華街の中心にあるコルフ(?)というおおきな本屋には、たいしたものはなかったとおもう。収獲がおおきかったのは、オブスという古本屋と、バッサル・スネンの露店の古本屋であった。「資本論」をドイツ語とオランダ語と英語でそろえるのに、たいした苦労はいらなかった。レーニン全集はドイツ訳で、博物館図書部からかりることができた。これは、博物館のとなりで、憲兵隊司令部になっていた、法科大学の図書が移管されたものであった。憲兵は、レーニン全集をもちだすぼくには気づかなかったが、オランダ人の女の子をだいて写真をとったら、よびだしてしぼったあげく、始末書をかかせた。「私儀、敵国人の子ども(満一才)をだいて記念撮影をし、軍政施行の方針にもとり、まことに申訳これなく
・・・」という調子である。満一才とわざわざいれたのが、せいぜいのレジスタンスであった。
その後しばらくしてだったとおもう。その博物館の蔵書のなかに、おもいがけないものを発見した。ボルケナウの「封建的世界像から市民的世界像への移行」(パリ、一九三四年)である。これは、ナチスにおわれた若者がドイツ語でパリで出版したもので、前半だけの邦訳を卒業論文のときに利用したが、後半は読むことができなかったのだ。これが読めれば、軍刀つって海をこえてきただけのことはあるわけだが、五百ページをこえる大著だから、そうかんたんにはいかない。ところがここでまた、悪運つよく、道がひらかれる。文芸部の鳥居先輩が、国際電気通信の代表としてきていて、タイピストがあいているからつかえという。いまのように複写技術が発達していなかったから、もっぱらこのマリー・エイクホフという女性の腕にたよ
って、とうとう三百ページをうつしてもらった。これが戦後、日本にもちかえられておおいに利用され、ついにみすず書房から全訳がでたということをつけくわえておこう。
国際電気は、鈴木栄二のいる会社である。かれもジャカルタへやってきて、例のように、つまらなそうな顔して仕事をしていた。二人でシェリーを何本かのみあかすというようなでたらめをやったのは、いつだっただろう。高橋泰蔵、杉本栄一、赤松要、高瀬荘太郎(学長)など、母校の教授が、あいついでおとづれた。杉本さんは、ぼくに、「この戦争は負けで、君たちは捕虜だよ」といって、シンガポールにかえっていった。野のはてに山かげがあざやかな朝、クマヨラン飛行場から、杉本さんをのせた軍用機がとびたったとき、いれちがいに海軍機が到着して、白服の士官たちがおりてきた。「軍人・馬・犬・鳩
・軍属」の最下位に属するぼくには、こういう連中は苦手だから、いそいでにげようとしたらすでにおそく、誰かが「ケイレイ」とどなった。右手を水平ぐらいまであげて、相手の顔みたら、武川祥作主計大尉であった。二人の口からおどろきの声
がでたのは、同時だったが、大尉と「鳩以下」が対等ではなしをはじめたのに、まわりもまたおどろいた。武川はしばらくい
て、帰国するとき、高島さんに本と時計をもってかえってくれた。そのスイス製の時計を提供してくれたのは、高島さんに撞球をおしえたという先輩、岡島上等兵であった。
岡島さんは、村井秀雄の中学か馬術部かの先輩だったはずだから、 岡島さんを知るまえだということになる。数名の日本人の下士官と、ルタ防衛隊の一部なのだろうが、かなりはなれたところにいたので、行動も比較的自由であるらしかった。したがってぼくはかれとよく飲んだし、かれの車をつかわせてもらった。もちろん、隊長とグンゾク、月とすっぽん、借はぼくの方にある。下士官が村井に「隊長殿、大学が一緒だというだけで、そんなに仲が良くなるんでありますか」と、質問したそうである。
あるとき、ぼくはジャカルタ南方の高原避暑地スカブミにちかい湖畔で休養していた。たしか、農村調査に行ってマラリアにやられて、高熱で卒倒、続いてキニーネののみすぎで黄痘になったあとだとおもう。そこへ村井から連絡があり、バンドンでの演習がおわって、あしたスカブミを通るからまっていろという。グンゾクには行動の自由はないのだが、なんとかごまか
して、指定の時間に町の広場に行ってみると、村井隊が休憩していて、顔みしりの兵補がぼくを「タイチョードノ」のところへつれていってくれた。隊長乗用車には、酒と山芋がつんであって、今夜は山上のホテル・スラビンタナでのもうと云うのである。部屋のまえの清流の音を夜霧のなかにききながら、のみあかしたあげく、軍務に忠実な隊長は、あかつきの山をくだっていった。ぼくはひとねむりして本をよみ続けた。そういう日々が続いているとき、兼松の藤原先輩が、村井とぼくをまえにして、学生時代に、一橋の銀杏はなぜおおきくならないか(一橋はなぜ大人物を生まないか)という議論をしたはなしをきかせてくれた。このことについて、戦後「如水会報」
にかいたら、大宅荘一が「文芸春秋」に「前だれ大学一橋」のなかでそれを引用し、この大宅の一橋批判にたいして、おもいがけないことに恩師高島さんが、「愛情がない」と反批判し、またそれについてぼくが「如水会報」にかいたのが、こんどは「朝日新聞」のコラムに引用された。この一連の議論を紹介すると、一橋大学論になるわけだが、今はその余裕がない。
(四)
ジャワには、また、朝日のロンドン支局長だった河野健治先輩が、宣伝部の少尉できていたし、バンドンの飛行隊には、保陰の大森良一さんが主計中尉できていた。バンドンから戦斗機が、シンガポールにチョコレートやたばこをはこんだこともある。
もちろん、そんなのどかなことが、ながく続いたわけではない。すでに、シンガポールへこんなおかしな補給をしなければならないことが、末期的症状であった。ジャワには、食糧はあっても兵力も武器もない。インド洋岸につくっている防禦陣を
みにいったら、宇治川のたたかいぐらいの、サカモギである。ぼくは「敵」上陸のばあいに、どこで降伏したらもっとも被害がすくないかを、ひそかに地図のうえで検討していた。玉砕派がすくなくとも表面上は多数なのだから、敵と味方の双方の攻撃を考慮しなければならなかったのである。
さいわい、そこまでいかないうちに、八月十五日になつた。捕虜収容所に集結することになって、荷物をおくりはじめ、あつめた本はどうにもならないから、インドネシアの高官プリンゴディグド氏(のちにスカルノ大統領の官房長官)などにあずけたりしていると、軍というのは最後までかってなもので、セレベスの第二軍に通訳として援助にいけという命令である。
「君は一橋をでたから英語ができるだろう」といって、この命令を伝えたのは、いま宮内庁次長をしている爪生順良であった。 こうなれば、これもまたおもしろかろうと、かんたんな旅行のつもりでひきうけた(命令だからひきうけざるをえなかった)のは、実は計算ちがいで、セレベスにいきっぱなしになってしまうのだが、やはり悪運は強かったというべきであろう。ジャワにいれば、独立戦争にまきこまれ、同僚の一人のようにころされたかもしれない。
ジャカルタ交響楽団(指揮者飯田信夫)の「田園」をきいた翌日、われわれ五人は汽車でスラバヤへ向かい、そこから、緑十字をつけて安全を保証された。軽爆撃機で、セレベスへむかった。操縦士新海中尉は、特攻隊生きのこり、飛行機の羅針盤はこわれていた。それでも、赤道ちかい海は、うすむらさきにかがやき、ぼくは機上でモーゼル・ワインをのんでいた。
セレベスでの約九ヶ月の捕虜生活のあいだにも、ぼくは一橋の人びとにおもいがけなく出合った。中学の先輩で大学の後輩 (海軍委託学生)である小笠原小佐や、兵器部隊(どうも変な名称だが)馬場富一郎主計中尉などがそうである。ここでぼくは、リヴァイアサンを訳しはじめ、ボルケナウをよみはじめた。九大出の吉村という主計大尉が、軍用行李のなかから、高畠訳の「資本論」全巻をかしてくれた。ぼくは、かれがそれをここまでもってきたことに、まずおどろいたが、おかげではじめ
て、「資本論」を通読することができたのである。
復員船がパシー海峡をとおる夜、雨しぶく海は波が荒かった。軍医がくれた防疫用のゴム合羽をかぶって甲板にねていたぼくは、夜半おきあがってしばらく、くらくさわぐ海をみつめていた。ここにしずんだおおくの人びとがあり、ぼくは生きていま海峡をわたる。戦争とは、われわれにとってなんであったか。
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