今年の春、所用あって郷里の田舎に帰ったが、その時のこと。一緒につれて行った息子が四、五冊の本をかかえて二階から
下りて来て、親父の近頃読む本は禄なものはないが昔の本はまだまだましだと言ってニヤリと笑った。実は、それらの本は買
い集めただけで余り読んではいなかったがそれは黙っていた。その時息子が一冊の色あせたノートを差し出した。手に取ってみると、表紙に、詩文集、自昭和十八年六月至昭和二十一年六月とある。中をあけると一頁目に、
「この貧しき二扁を貴き十四柱の英霊に捧ぐ」小隊長とある。
これは確かに俺の書いたものだ。中をくりながら三十年ばかり前のことを憶い聊か懐しい思いをした。実はこの文集には少 し経緯がある。
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終戦となった昭和二十年の十月から翌年の五月まで私達は中国、九江の対岸から十粁程奥に入った村で帰国乗船を待機した。そのとき退屈にまかせ戦場でのことなど書きつづってみたのだが何とか記念に持って帰ろうと思い雑嚢の奥にしまっていた。
愈々帰国の乗船となり、九江の埠頭で所持品検査が行われ、少しばかりの持ち物をすべて並べて検査をうけた。検査員が順々に見てまわって来るのであったがこの文集は少し気になりソッと手にとり後手に持ちかえた。ところが不意に誰かが後からそれを取り上げた者がある。振りかえるとサングラスをかけた中国の士官らしい者が黙ってとり上げて読み始めている。シマッタと思ったがもう遅い。この機に及んで何か言いがかりをつけられ、乗船停止にでもされたら今迄の苦労も水の泡かと
内心大いにあわてたが観念の外ない。暫らく見ていたが仮名まじりの日本文はわからなかったのか黙って戻してくれた。
やれやれと胸をなで下したことだった。船に乗り込んでからこの先、上海、博多とまだまだ米軍の検査も予想されるので思い切って船窓から投げ捨てた。白い紙束が濁った揚子江の水面を流れて行ったのを憶い出す。
その后一ヶ月経てどうにか博多に無事上陸した。家に帰ってから何とか憶い出せるだけ又書いてみようと取りかかり、詩文二十七編、短歌まがいのもの七十首を書き上げた。未だ若い頃で記憶力もあったのか、九十バーセソト以上は憶い出して書きとめた。その后、そのまま本箱の中にほうり込んでいたもの、今二十六年振りに対面となったわけである。
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今回卒業三十周年の記念文集の企画を聞き、何とか責任の一端をと思いつつも取りまぎれ、半年以上もうち過ぎてしまった。はじめ、現在勤めている会社のこと「百バーセント外資会社」と題して書きかけたが少々生ま生ましすぎて面白くなく、途中でやめてしまった。たまたま十二月クラブクラス幹事まで仰せつかり、皆さんにお願いをする手前愈々何とかしなくてはと、
ほとほと困ったが、偶々前記文集をみて、この中から二、三篇をぬき出すことに決心した。
どうも私の生涯で、この戦場の三年間は、余程骨身にこたえたらしく今でもかなりのウェイトをもつ様な気がする。長崎での二十五年間は、全くアッという問に過ぎた感であるが、この三年は何か重くるしく生涯つきまとわれる気がする。
この戦争で吾々は多くの学友を失ったが、生きて帰ったもの、死んで帰らなかった者は全く紙一重の差で生きのこった自分 としては心から亡き人達の冥福を祈らざるをえない。
ともかく恥をしのび原文のままのせて頂くことにした。後記の注は、今回少し憶い出して書き加えた。私には昨日のことの如く鮮明な印象であるが、読んで頂く方にはおわかりにくいとも考えられるので。
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一.地形偵察 昭和十九年十一月八日、桂林総攻撃の前日
明日は愈々総攻撃だ
もう一度と最后の地形偵察をする
見よ、連々と天空を摩して連なる紫紺の岩山を
赤黒く崩れつもる街かげを
黒々と焼け残れる林を
あの山の下の地形は何如と
くりかえしくりかえし眼鏡にてのぞく
何時迄見てもあかぬ山、そは攻撃すべき山か
突然シュル、シュル、シュル、ターンと
かん高くこだまして敵の重砲が
附近の森に落ち始む
待避だ!
土壁に身をよせつゝ
ぁゝも、こうもと策を案じてつきず
晩秋の陽は何時しか西に傾き
あかあかと前の土塀を
うっ蒼と茂れる群葉を照せり
あゝ 自然は美しき哉
されどされど明日の夕陽にはそも再び見ゆること叶うまじ
ふと、言い知れぬ淋しさが 幽かに而も強くこみ上げて来る
(後記)
翌九日未明総攻撃の配置につく。午前八時、当時十一軍が持っていたすべての砲を網羅して、百雷一時におつるが如 き壮絶な砲撃の支援のもと歩兵部隊も一斉に攻撃開始。
頭上にのしかかる様に迫る岩山の上から見下しの迫撃砲の集中攻撃をうけ、忽ち右手、右腰に破片による負傷、視界清掃の為め一面焼き払われた市街地の中を終日右往左往する始末で攻撃どころではなくなる。左翼からの攻撃を受けもった我が隊の行手は、水濠、鉄条網、地雷原で岩山は街の片側を流れる桂江の縁まで迫り、暫く人一人通れるくらいの余地しかなかった。
前日の偵察ではこの様な細い処まで判る筈もなく殆んど不可能な処へ突き込んだ結果となった。
二、突 撃 昭和十九年八月六日、衡陽攻撃の夜
敵は狂気の如く機関銃をうちまくる
稲田に集中する弾は
夜目にも白く火柱を立て
堤防を引きちぎる弾は
青く赤く火花を散らす
午后八時三十分
突撃の時期は迫る
にぎりしめる銃と剣と
どろどろの泥土を掴みつつ
ひた押しににじり迫りゆく
突如、ドドド・・・手榴弾の炸裂!
東方の天空は夕焼けの如く朱にそまりぬ
やがてかすかにウァーッ、ウァーツと 声のきこゆ
突撃だ。隣接一〇七大隊決死隊の突撃だ。
いざ我も亦!
死、死 そは何と平静なることよ。
(後記)
この日夜に入って集結地を発って攻撃の配置につく。淡い月あかりの夜であったが途中蝋燭の灯の下で盛に戦傷者の手術をやっていた光景が目に浮ぶ。この夜の攻撃は結局失敗に終る。
翌七日朝から再度総攻撃開始となる。此の日バラ色の夜あけと共に友軍の飛行機約四十機が飛来し突撃路をつくる為めの爆撃を開始。処がどうした事か爆撃地点が少し突撃予定地をズレており蒙々たる爆煙の中をままよと攻撃にスタートしたがたちまち挫折、先陣の第一中隊は楔を打ち込んだ形で敵中にはまり、周辺から一斉射撃を受け中隊の編成不可能に到る損害をうけることゝなる。続く我が中隊も前の方が止まったので、田圃の中にほうり出されてしまい台上の市街地から狙い射ちをうけ、一日中身うごきも出来なくなり多くの犠牲を出すに到る。衡陽は中、南支の境いの要衝であり、数ヶ月前から包囲して攻撃していたのが失敗の連続。その中わが包囲陣を外側から逆に包囲されることとなり最大の激戦となった。
三、広 西 の 山
見よ、 突兀と天空を摩して乱立する広西の山を
汝は、そも幾千年を風雨の中に曝されたる
汝が肌は恰も鋸の歯の如く
汝が貌は天に向いて叫ぶ怪獣の如し
緑、緑、緑 鮮かなる緑
五月の広西の山の緑は目にしみる
真白き雲 紺青の空 深き蔭
そしてもの狂わしい静けさは今日も亦つづく
あゝ奇なる、美なる、険なる広西の山よ 汝が天険こそよく汝が育む者達を守れり
げに、精鋭の日本軍をして矛を横え長嗟嘆せしめしは誰ぞ
まこと一夫関に立てば万夫また之を開くこと無し。
(後記)
昭和十九年十二月より二十年七月迄、五十八師団第百八大隊は、広西省百寿県古化附近の警備に当る。この地方は山又山の奥でいわゆる南画等にみる山そっくりの山が連々と連り、その奇怪な山容は今も目にのこる。
かなり南になる為めか、緑の色がひときわ鮮かであった様だ。住民は苗族というものが混り、なかなか精悍で森の中からの狙撃がうまく、ひどい苦労をした。こんな処では新式の兵器などさっぱり役に立たず、全くお手上げの状態に陥った。
七月下旬遂に撤退開始。敵の追尾をうけ薄氷をふむ思いで山又山を越えた。苦心の末、占領した桂林も至極アッサリ放棄し、来た道を一路北に向い撤退して行った。八月の初め頃だったか砂塵をあげて通り過ぎる後続部隊を土手の斜面で休みながら見送っていたとき、フト学友の岡口万洲男君が通りかかり思わず双方駆け寄ってほんの束の間、お互いの無事を喜び合ったこと
を憶い出す。戦地で学友にあつたのは之が初めてであり終りでもあった。氏はその后御壮健に活躍の由承る。御同慶にたえな い。
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