昭和十九年二月三日、私はビルマのべンガル湾添いに印緬国境突破作戦(楯第十五師団丸亀連隊)に参加した。
我々の部隊は印緬国境を突破して敵中深く進んで行った。夕方から次の朝にかけて相当の犠牲を覚悟で敵中を突破し、反転 して敵の強力部隊を包囲する作戦であった。
(一)
二月四日午后四時頃である。 疲れを休める暇もなく我が小隊は将校斥候となり敵情偵察に向った。総数十四名、軽機関銃、擲弾筒が有力な武器である。途中迷子になった友軍の小部隊や、戦火をさけて山の窪地に避難している住民に所々で出会うだけであった。先方の高地まで出て敵情に異状が無ければ部隊を此所まで誘導しようと考え乍ら進んでいたら、相当の大部隊が此方に向って来るのが見えた。隣で第一分隊長が「徳島の連隊が作戦を終えて移動しているらしい」など独言を云っている。
部隊の先方を此方に向っている斥候兵の服装がおかしい(印度兵は持物を全部背嚢に入れ腰には何もぶら下げていない)。 これを確認しようと右膝をついて双眼鏡を手にした途端に自動小銃の掃射を受けた。伝令をとばして軽機関銃で応戦しながら出来るだけ早くこれをかわそうとしたが出来なかった。またたく間に我々十名余りは田圃の中で包囲された。敵は後方部隊が
前面に出て迫撃砲、チェコ製軽機関銃を次第に増して来る。双方の距離約二百米位であろうか。普通なら突撃、白兵戦に近い距離に迫って来ていた。
敵は有利な地点から人員、火器の優勢にもの言わせて我々をねらい打ちである。幾つかのチェコ機関銃の音は絶えることが ない。我々の部隊からもぼつぼつ戦死者が出始めた。”やられた””天皇陛下万才””お母さん”の声が小さくなってゆくのは、やがてこと切れてゆく姿であっただろう。
近くで”ドカン”と云う大きな音がするのと同時に、左足が引き抜かれる様な感じがした。私も迫撃砲弾で左足の外側の肉が骨と共に吹きとばされた。処置する暇もない内に、左側に居た軽機関銃手がたおれた。敵のチェコの銃弾は我方の軽機関銃
に集中していた。致命傷だったのか声も聞えなかった。”軽機交代”と云う私の声ですぐ後に居た軽機関銃手が這い乍ら軽機
に近づいた。銃把をにぎったかと思う間もなく左前方から来た一弾は左首から右胸に向って流れた。軽機の右側に居た私は、
彼の右胸から”パッ”と真赤な血しぶきがとぶのを見た。彼はそのままうつ伏せた。私は軽機に、にじり寄り銃把をとって引
き寄せようとしたが動かない。突然”小隊長”と云う大声が聞えた。その声は内海軍曹であった。彼は日支事変以来の歴戦の第一分隊長で、私は彼が元気だと分ってほっとした。”小隊長うしろの山に登ろう”と叫んだ。見ると後ろには二、三十米の
小さな山があり、二、三米位の背の高い草と權木の交った遮蔽のよい場所である。”よし上れ”私は叫んだ。余り距離は無い。
近い処で三十米位であろうか。最初の兵隊が立って山に向って突進する。途端に敵はこれに集中射撃を浴びせかける。幸い最初の一人は成功した。この雨、霰と降る銃弾の中で案外当らないものだと私は自信を得た。
さっきから引き寄せようとしてもなかなか動かなかった軽機が動いた。よく見ると脚の先が稲の茎に引っかかっていたようだ。左前方にチェコ機関銃が二つ並んで我が方を乱射しているのが見えた。距離約二百米、私はこれをねらった。引き金を引
いた。肩に二、三発の発射の反動が感じられた。突然パチンと云う大きな音と共に軽機が倒れた。軽機の脚が見えない。弾丸は軽機の脚のもとに当ったらしい。数ミリの差で私の命は無かった。後ろの山に向って走る兵隊の動きは続いている。走る兵隊、これを追いかける銃弾。まるで音が息をしている様な無気味な時の流れ。一瞬、ピクッと音が止んだ。無事を祈り乍ら見
ていた私はハッとした”小隊長全部終りました、お願いします”第一分隊長の声が聞えて来た。「あっ己れの番か」と我に返 った。然しさっきからの左足の痛みはどうも骨折らしい。私は歩ける自信が無かった。だが皆が待っていると思うと元気が出て来た。軍刀を杖に立ち上る。再び敵の集中攻撃、体の左右をビュンビュンとかすめて通る弾。その中を右足の片足跳びで倒れる。すると機関銃の音が途だえる。又立ち上り走る。銃弾の音が一と際はげしくなる。倒れる。
この繰り返えしを五、 六回やっただろうか。距離にして約五十米位であった。私は死線を脱した。途中まで分隊長が迎えに来てくれ私は彼の背に負 われて山の向側の斜面に出た。皆喜んでくれた。この戦斗の死者四名であった。
(ニ)
敵中深く突込んだ作戦であったので、我々がもとの中隊に合流出来たのは、あれから三日の後であった。私は左足骨折で連隊の野戦病院に収容された。病院と云っても建物がある訳ではなく沢山の負傷兵が木の下などに集っている丈のものでありそして又敵の中に居るのである。
友軍が敵の師団司令部を占領し、我が野戦病院もその近くの山の斜面に移された時の事である。
友軍の陣地に対し、隣の山にいる敵の砲兵陣地から毎日の様に集中砲撃がある。砲弾は我々の頭の上を通って山の下の友軍の陣地とか補給路をねらっている。ヒューンヒューンと云う音。やがて下の方から聞えてくる炸烈音。太鼓をたたく様なドー
ンドーンという音が交錯して聞えて来るのが日課になっていた。
二月十日の夕方、例の通り頭の上を通る砲弾の空気を切って行く低い音、下で炸烈する大きな音を聞き乍ら、うつらうつら
していたら、頭のすぐ側で耳をつん裂く様な炸烈音と共に体が大きなハンマーで叩きつけられた様な衝撃を受けた。あたり一面に土煙が上り体は痺れて何も分らない。息をすると空気が漏れる。やがて自分が重傷を負った事に気づいた。下の方で用を
していた当番兵の松本一等兵が、かけ上って来た。砲弾の破片が左腕を砕いて左胸から背中に貫通している事を知った。ひどい痛みと出血である。衛生兵を呼んでも一度に沢山の負傷兵が出たので、手が廻らないらしい。松本一等兵が両手で私の左胸
と背中の傷口を押え乍ら衛生兵を呼んでいる。大きく息をすると、傷口から空気と一緒に血が吹き出して来るので出来る丈小さく息をして我慢していた。然し次第に体は衰弱し、奈落の底へでも落ちていく様な感じはどうする事も出来ない。唯一生懸命に傷の痛みに堪えていた。
すると急に今までの痛みが嘘の様に消え、現実が夢に変り、小さい時の故郷の情景が目の前に開けて来た。恐らく頭の上に は相変らず砲弾が飛び、下で炸烈している騒音は何も変らない筈であるのに、これが何も聞えない。唯前後のつながりもなく楽しかった少年時代の風景がパノラマの様に続いて行く。
どれ丈の時間が経っただろうか。大きな声で呼んでいる松本一等兵の声で始めて我に帰った。私は死線をさまよって生き返 ったのである。当番兵、衛生兵、軍医、其所に居合わせた人達が、注射をし、叩いたり、ゆすったり、大声で呼んだりしている内に意識が回復して来たそうである。この人達の努力が無かったら私は、おそらく其所で死んでいた事であろう。
(三)
野戦病院は戦況によって次々に移動して行く。我々は敵中を又別の場所に移った。静まりかえっていた野戦病院が急に騒々しくなった。夜中の十二時頃だろうか。聞けば又移動だと云う。歩行可能の患者はすぐ集れと云う、非常呼集がかかった。担送患者はどうするかと衛生兵に聞いたら、明日改めて迎えに来ると云う。或は患者まで戦線に狩り出すような状勢なのかと不安な気持で我々は残った
。
翌日夜が明けて見たら、山の窪地に担送患者七、八十名位が残っていた。衛生兵は誰も居ないし、迎えの為の何の連絡もない。夕方五時頃私の隣に居た工兵隊の将校の当番兵が何所からか情報を持って来てヒソヒソと話している。聞くともなく開いていたら、戦線は我が方に不利で戦斗部隊は全部国境線まで撤退し、歩行患者も部隊と共に引き上げたらしい。最後の山砲部隊の一部が今夜引き上げるので、これに加わらないと果して救出されるかどうか分らない。この山の周囲は全部敵の兵力に制圧されていて、どうする事も出来ないと話していた。
ニューギニヤとかガダルカナルで撤退の最後の足手まといは負傷兵で、これをそのまま捨てて来たとか、毒を飲まして殺して来たとか云う話をよく聞かされた事を思い出した。それは現実にこういう状況の中で起きるのかと今更の様に戦場の悲惨さを思い知らされた。私は決心した。”松本行こう”と当番兵に声をかけた。が彼はびっくりした顔で私を見ている。左手左足
の骨折、その上胸部貫通銃創で今日死ぬか明日死ぬか分らん奴が何を云うのかと言いたげであった。彼は衛生兵が来てくれな ければ担送患者は動かせないし昨夜係の衛生兵がきっと迎えに来ると約束して別れたから二日待ったらどうかと云う。
私の説得に彼もようやく事態の急迫さが分ってきたらしい。持物は手榴弾と一食分の乾パンと水筒だけ。残りは全部土中に埋めて行く事にした。背嚢も銃も雑嚢も捨てた。彼も三八式歩兵銃を手放した時は涙が出たと話してくれた。歩く事が出来ない私は、夕日が沈みかけた頃松本一等兵の背に負われて山砲部隊の集結地である丘の上に登った。
山砲部隊は砲を土中に埋め砲隊鏡など小さい物を持っているだけで殆ど丸腰である。それに附近に居た通信隊の一部、負傷兵七、八人の、混成三十人位の一隊である。隊長は砲兵の小隊長で彼も我々と同期位である。若干の注意と、無事に敵中を突破して国境線内の友軍陣地に合流して再起を計ろうと云う意味の力強い訓示をしていた。
午後八時頃いよいよ出発である。ジャングルの暗闇の中を砲兵隊が準備してくれた電話線を引っぱり合い乍ら丘を下った。うまく敵中を抜けられるだろうか、プチドンとモンドウの国境線に辿り着くまでの十K米位の道程が細かく分っているだろうか、私を背負って進む松本一等兵の体力が続くだろうか。いささかの不安はあった。然しこの部隊について行くしか道は無い。
出発の時念の為砲兵隊長に頼んだら”元気なのが沢山いますから困ったら何時でも云って下さい”と云われほっとした。
丘を下りた所で一度休憩し、又歩き出した。三十分位経っただろうか。見ると塹壕が掘ってある。誰も居ない。塹壕の様子は日本軍のよりも一寸深い。敵のものらしい。こんな事を小声で話し乍ら通り過ぎようとした時である。左前方より耳をつん裂くような音と共に機関銃の掃射を受けた。突差の事で私は其所にころがり落ちた。部隊は蜘蛛の子を散らしたように逃げ散って行った。私の落ちた処に、高さ三十糎位あろうか小さい堆土があった。私はその蔭に身をかくした。弾丸は夜間に使用する曳光弾で、火の玉を投げつけるように迫って来る。頭のすぐ上をピュンピュンと火の玉がかすめて行く。機関銃を横に振りまわしているのか、右に左に掃射している。堆土の向う側に落ちたのは、まことに幸運であった。そうでなければ、難をさける時間的余裕は無かっただろう。
敵は日本軍の夜襲と感違いしたのか。あちこちの陣地から目くらめっぽうに機関銃、泊撃砲を打ち、曳光弾と照明弾の打上げが交錯する一幕が続いた。暫くすると又もとの静かな闇に返えった。敵の歩哨が状況の確認に来るのではないかと聞き耳をたてていたが、人の近づいて来る気配はない。私は助かった。然し部隊のものは誰も居ない。どちらへ進めば国境線に行けるか見当もつかない。私は困った。矢鱈に動くと敵の歩哨線の中へ入って了うかも知れない。どうしたら良いかと辺りを見廻していたらふと、美しい空の星が目に止った。ビルマの二月の空は空気が乾燥しているせいか星が非常に美しく見える。北極星、いや此処では南十字星だ。そんな閃きが脳裏をかすめた。南十字星を捜したらすぐ見つかった。南に向って行けば国境線に辿り着く。早く部隊に追い付かなければと田の畔道にそって這い出した。
左手左足の骨折の痛みと、体の衰弱はどうしようも無い。やっと二十米位進んだだろうか。一と休みしようとふと顔を上げたら”小隊長”と云う小さい声が右前から聞えて来た。”誰だ”と云うと”松本です”と云う返事。もう部隊に追い付く事は出来ないので、昼は木の下に隠れ、夜這い乍ら国境線まで行こうなどと考えていたので、この松本一等兵に会えたのは地獄で仏の思いで、心の中で手を合せた。”小隊長此所は危い、部隊はずっと向うへ行っている”と彼は私を背負って走り出した。
部隊は四、五百米向うの木の下で、散らばった人員を掌握する為に待っていた。松本一等兵は此所から、敵の歩哨線を警戒
しながら私を捜しに来てくれたのであった。此所で暫く待っていたら、だんだん人数も増えて来た。皆相当に方向を間違えて苦労したらしい。夜がしらみかけた頃、ようやく友軍の歩哨線に辿り着く事が出来た。然し着くまでには暗闇の中で敵の歩哨線に近づいて機銃掃射を受けること十数回。一度は敵の歩哨が確認の為近づいて来た事があった。皆草の中で息を殺して歩哨の通り過ぎるのを見送った事もあった。又途中幅四、五十米の河があり、高い堤防、股の処まで来る水深等、到底一人で這って帰れる様な地形では無かった。どれ位犠牲者が出たのか私達には分らない。二人は生還したのだ。唯もう涙が頬をとめども
なく流れた。”松本有難う””小隊長よかったですね”。
「ドカーン」と云う物凄い大砲の音が、明け方の静けさを破って響いて来た。又右前方から一発。聞けば静岡隊三島の重砲兵連隊の重砲の音で、敵の陣地に向って朝の第一発を見舞ったのであった。
何か重砲の力強い響に二人は唯無言で頭を下げた。
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