三組  川口 憲郎


 落語の三題ばなしのようなへンな題目をかかげて申しわけない。これ等は私の学生時代の回想として浮ぶ趣味、運動、就職先のことであるが、いずれも二人の友にみちびかれて選んだ私の道の一つである。

 二人の友とは、予科時代同じクラスで、学部ではゼミも同じくした佐藤珍平君と、もう一人は横浜高商から来て学部で一緒になった小林頼男君のことである。私達三人とも戦争に参加したが、帰って来たのは結局私一人であつた。卒業三十周年に当り、 遥かなる学生時代を回顧して、亡き友と共に過した思い出を書きしるすこととした。

 予科に入学して寮に入らず多摩湖線と中央線とを利用する通学仲間に佐藤珍平君がいた。珍平などと全く珍しい名前の男であったが真面目なおとなしい青年であった。特にむづかしい学問に打込むわけでもなく、運動選手になるタイプでもなく、文学芸術を論ずることも少く、たゞ一緒に毎日通学するほか、ハイキングに行ったり、ザル碁を打ったり、なんとなく健全娯楽 を共にした仲間であった。予科生活も終りに近い頃、ある日彼が云うには「学部へゆくと時間が余ると思うが、今から運動部へ入るわけにもゆくまい。趣味として尺八でも習おうではないか」と。

 当時、一橋東都会という尺八の同好会があり、都山流の尺八の先生が教えに来ていた。そして私達と同じ三組には田中林蔵君のように、予科入学以来研鑚を積み、既に「名取り」の名人もいた。また学部上級生には師範の免状をもっている人々もいて、その人達の演奏を聞いていると日本音楽の幽玄な美しさの中にひき入れられるようであった。佐藤と二人で東都会に入会 し、先輩から尺八をやるには最低この位のものでなくてはと云われ、その頃では大枚の金二十円なりの尺八を手に入れ、余韻嫋々とは程遠い間の抜けたオトを出し始めた。もっとも、オトは自然に良くなってくるから心配せずに指の動かし方をよく練習するように云われた。学部へ進むと、予科より自由の時間が多い。今考えるとその時間でもっと学問をせよという意味だっ たと反省しているが、その頃はあまった時間でよく尺八の練習をした。横浜高商から進学してきた小林頼男君が入会し、われわれと一緒に初心者向きの練習グループに加わることとなった。佐藤は色浅黒く細おもてであったが、小林はふっくらとした顔で、笑うとエクポの出るのが印象に残っている。

 東都会は毎年一橋講堂で演奏会を開くのを恒例としたが、演奏会前には技倆の段階別に演奏曲目をきめられ、しばらくは猛練習を行うこととなる。筝や三絃との合奏も何回か練習し、本番の舞台に立ったときは皆真剣そのものであった。一つの目的に向って行動することが仲間意識を高め、一段と親しさを深くしたように思う。学部三年間少しづつむづかしい曲へと進んだが結局は中級の半ばに終った。はじめた頃にくらべれば、一応指も動き音色も良くはなったが、人の魂をゆさぶるようにはならなかった。だがたった一度だけ、三人で千鳥の曲を吹き、一人の青年をして涙のために座にいたゝまれなくしたことがあった。もっとも、この青年と一緒に聞いていた他の人々は私達の下手な尺八に何の感動も示さなかったので、おそらくその青年には何か特別な思い出があったにちがいない。今でも不思議に思っている。これは次の「空手」に関係しているのである。

 御承知の通り私達の学生時代は戦争の時代で、卒業直前には真珠湾でアメリカとの戦いが始まるという始末であった。予科より学部と上級に進むにつれて思想的にも経済的にも軍事統制的圧力が強まって来た時代であった。その一つの現れとして学部生になった時、学校当局より、すべての学生は「班」に所属せよという指示が出た。班とは従来の運動部のうち例えば剣道部が剣道班、弓道部が弓道班と名前を変えたほか新に「射撃班」「国防研究班」などというのが出来て、それらのどれかに加入しなければならぬとのこと。要は学生をして戦争に耐えうる体力と精神力の養成を目的としたものであろう。

 ところが佐藤と私は運動をやっていないし、「尺八班」などというのは娯楽であって心身の鍛練にはならないので認めて貰えず、真面目な私達は困惑した。この時小林が「空手」に入れという。その頃彼は空手部に属し、既に初段になっていて空手部の重鎮の一人であったので、適宜軍国的鍛練も大目に見てくれるであろうと考え、佐藤と一緒に「空手班」に入れてもらった。すると小林から名前だけでもいいのだが切角入ったのだから練習をして見ろと云われた。翌日道場へ行って、小林や下級生だが空手では先輩の諸君から基本動作を教えられ、見よう見まねで練習した。即ち前進後退、突き、ケリ等々一通りやらされた。驚いたことには翌朝目が覚めたところ腕と云わず、足と云わず、背中と云わず、身体全体の筋肉が痛いのである。全身打撲の症状である。普段使っていない筋肉を、若さにまかせてイッペンに酷使したためであった。それでも二日、三日と続けてゆくと筋肉の痛みはうすくなっていった。たゞ、突いて来る腕を腕で払うと紫色のアザが出来たりする。他の友人からそういう打撲傷は若いうちは直るが、年をとって神経痛のもとになるぞとおどかされた。だが五十才違ぎても別になんともないので、あれはウソであったと思う。基本動作からはじめて「平安」「騎馬立」などという型を習ったりしながら夏休みとなっ た。夏は空手班も合宿をやるという。戦争も拡大しており時局多端の折、単なる物見遊山は許されない時代なので、若い者同 志の合宿には解放感があり、喜んで参加することとした。ところで小林は禅もやっており、禅の道場を宿舎として、一石二鳥 の計画をたてた。御殿場線の「裾野」駅下車の黄瀬川のほとりに座禅の道場があり、夜は禅、昼間は近くの小学絞の雨天体操場を借りて空手の練習をすることとなった。ここで僅かの日数であったが禅の外側を眺めたことは、その本質は判らなかったが興味ある体験であった。その道場で朝の掃除の際は温顔あふるるばかりの老師が、夜の参禅の時は眼光射るごとき厳しさを見せたことを今も忘れることが出来ない。その老師が空手はクウシュとも読め禅に通ずるところがありそうだなどと笑っておられた。老師に二人の内弟子がいて、一人はナマグサであったが、もう一人の廿五、六才の青年は朝早くから夜おそくまで熱心に座禅の修行をしていた。ある日の午後、老師の許しを得て「茶礼」と称し私達で茶話会を催し、無礼講でくつろいだことがあるが、その時の余興にわれわれの吹いた尺八に、その熱心な内弟子が前述の通りひどく心をゆすぶられた様子を示したのである。禅とミックスした空手の合宿は小林の面影と共になつかしい思い出である。

 三題ばなしの最後の題は「東芝」である。学部三年生となり就職先を選ぶ時期が来た。軍需インフレのため求人は多く一般的には学生側で就職先を選択する状態であったが、やはり優の数が少いとむづかしい会社もあった。私は知人を通して日本化成を紹介して貰ったので、これを第一志望とした。佐藤と小林は二人とも東芝を受けるという。そこで私も第二志望を東芝と した。ところが何の手違いか、一斉に各社の入社試験がはじまるとき日本化成からは面接試験の電報が来ないので、東芝に試験を受けにゆくこととなった。東芝では佐藤と小林が受験に来ていて、良く来たと喜んでくれた。われわれを含めて八人全員 が合格したが、私だけは蔭に呼ばれて工場の診療所でレントゲン検査を受けるよう指示された。私は当時健康に自信があったので面白くなく、東芝の工場へゆく途中日本化成に立寄り電報が来なかった理由を尋ねてみた。人事課員が手違いを詫び、今から受験しても良いと云った。そこで既に面接の済んだ仲間がいる身体検査場に行った。まづ体温を計れと云われて途中で体温計を見たら微熱が出ていた。一緒に身体検査を受けていた仲間は体温計を少し振って下げておくことをすすめた。しかし先に東芝で引っかかり、又ここで引っかかるとは、やはり健康に異常ありと思わざるを得ず、まづ健康を確めることが大切であると考え、東芝で精密検査をしてくれるというのは丁度よい機会だと考え、日本化成を辞して東芝の鶴見工場でレントゲン検査を受けた。結果は入社許可となった。一通の電報の手違いもあって就職先を変えたことになるが、やはり佐藤と小林が一緒にいるということが影響したように思われる。

 昭和十七年一月十一日佐藤、小林、私の三人は東芝重電部門の入社式に一緒に参列した。しかし配属の工場は別々となった。 そして体格の良かった小林は就職したとは云え、一ヶ月足らずの二月一日には現役で入営してしまった。その後見習士官にな った頃から、何回か手紙をくれた。いづれも満州からであつた。佐藤と私は現役をまぬがれ会社勤めを続けた。勤務場所も離れ、仕事も違っているので、学生時代のように年中会うわけにはゆかなかった。男がどんどん兵隊にとられるので新入社員の仕事も多くなって忙しかった。ある日、鶴見の工場に用事があった時、佐藤の職場に立ち寄ったら、昼休みに教練をやっていたのには驚いた。

 昭和十九年の五月私が召集され、一ヶ月おくれて佐藤が召集された。私が三重県の部隊で初年兵の教育を受けていた時、家からの手紙で佐藤が私の留守宅に出征の挨拶に来たということを知った。彼がフィリッピンに行ったということを知ったのはずっと後であつた。

  戦争が終った翌年、私は台湾から復員し、東芝に復職した。佐藤と小林は、いつまで待っても帰って来なかった。戦後の混乱の中で、私は日々の生活に追われ、不人情にも彼等の消息をたづねることもせず、一度だけ佐藤のお母さんからお手紙を頂 き、慰さめの返事を差上げただけである。

 尺八から空手、そして東芝入社と行動を共にして来たが、戦争は私だけを残し、私だけが東芝に勤めつゞけて定年を迎えようとしている。

 佐藤と小林の霊は何処かで私の生活を眺めているのではなかろうか。彼等は「だらしないぞ。もっとしっかりしろ。」と云 っているようだが、それは温い友情の霧の中から聞えてくるような気がする。