一組 新井 隆
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当時の食堂部の委員は、別に給与を貰っていた訳では無く、他の運動部、文化部と同じ様に、鍛練の場、勉強の場所として当然のこと乍ら無報酬で仕事をしていた。組合は一つの経営実践体得の場として、食堂の経営問題を、人事、仕入、販売、経理等、凡ゆる面について、学生の手で、合議制で運営していたのである。そして吾々の手に余る問題にぶつかった時には、組合長や、顧問の先生に相談を持ちかけた。
予科三年の夏休みも近づいた或日、吾々食堂部委員は定例の委員会を行った。その時の議席の一つに、調理用ストープの修理の件があった。ストーブの傷みがひどいので、夏休み中に修理しようと云う議案である。会議の席上では、一委員から、専門店で見積らせた修理費用の概算額等について報告があり、修理問題は簡単に片付きそうであった。ところが、その時、一年生の委員として最近新たに加わったM君から発言があり、彼の父君が手広くいろいろやっており、ストーブの修理も引受けると云っている。価格も、調査した価格を下廻る価格で引受けるから、是非自分の父にやらせてもらいたいと言うのである。こゝで各委員からいろいろ意見が出たが、結局、M君の父君に頼むこととなった。 夏休みも終り、ストープの修理も終って食堂の仕事が始った処が、間もなくストープの調子が悪くなって来た。ストープを 開けて修理箇所を点検してみると、まことにお粗末な素人くさい修理の仕方である。M君を信頼して修理を頼んだ吾々は、早速M君を呼出して文句を云ったが、らちが開かない。仕方がないので、委員の代表として私他二、三人でM君の父君に直談判 をすることとなった。M君の父君には中々会えなかったが、自宅を訪ねたり、事務所を訪ねたりして数回折衝を重ねた。 この父君は、はったり充分の話し方をする人であったが、仕事は余り旨く行っていない様で、事務所と云っても、炭屋だか雑貨屋の木造の二階の一室に絨毯を敷いて作られた事務所であったし、自宅の応接間は安普請の室内に、下手な裸婦の絵がかげられていたのが想い出される。仕事は本職が何かは良く判らなかったがブローカーの様な仕事をしていた模様である。 この父君の人を喰った様な尊大な態度と、誠意の無い応待には、吾々は甚だ憤慨し、遂に感情的に正面衝突をしかねない処まで行ってしまった。 当時組合長をしておられた太田先生は之を聞いて大変心配をされ、自ら乗出して、M君の父君にも会われ、吾々委員からも 話を聞いて調停に努めて下さった。調停案がどんなものであったか忘れたが、話が纏った或日、この問題に直接関係した委員連中は、先生から神田のある中華料理店に御招待を受けた。その席にはM君の父君並にM君も来ており、席上で先生から、問題解決した上は、お互に過去の経緯を忘れて、感情のこじれは水に流してもらいたい、との御挨拶があり、これで、M君並に父君とは円満に手を打ったが、この時の費用は全部、先生の自費御負担であつた。如何に物価の安かった時代とは云え、先生 にとんだ御迷惑をおかけしたものだと大変恐縮した。 太田先生の親分肌の御性格は、多くの逸話を残しておられる様だが、この事件以来、先生に対する信頼感は一層強いものと なり、遂に大学を卒業する迄、食堂部委員を努めることが出来たのも、バックに太田先生ありとの気持があったからである。 社会へ出てからも折にふれては先生を懐しく思ってお訪ねしたりした。私は元来、増地ゼミナールであったが、こんな処から、太田ゼミの先輩からは、太田ゼミナール出身者と思われたりしたこともあった。 先生が亡くなられた今日、今更の様に先生のことが懐しく思い出される次第である。 |