七組  水田 正二


 中学時代は、台湾で毎日を水泳、水泳で明け暮れし、かなりのレベルに迄達して、その頃二年ごとに開催されていたフィリッピンとの対抗戦に出場できる位にまでなっていたのです。憶えば古いことですが、その折は、練習過多で、遂に試合一ヶ月 前で入院の羽目になったのでした。病名は肺浸潤―右肺が2/3、左肺は1/2やられていまして、齢十八才の紅顔可憐な少年は、 二〇才までは生命が持つまいとの医師の診断でした。入院二ヶ月で退院したのですが、手当がよかったのでしょう。それから 不思議に生命を長らえて、学窓を巣立ち、昭和十八年には、日の丸の旗に見送られて、ラパウル戦線に出かけているのでした。 消えかかる生命の灯を、幾度かかばいながらとにもかくにも無事帰還した時は、もう三〇才を越えていました。

  青春時代は、灰色とカーキー色でぬりつぶして来たのですが、戦後の混乱から次第次第に秩序をとり戻してきた時を経るにつれ、矢張り「日の丸」の旗と「マーキュリー」の旗とが、私の人生のガイドポールにはためいているのを感じます。