七組  松井 利郎

  それは昭和十六年九月十日頃であった。私は学生々活最後の夏休みを郷里でのんびり過して東京へ帰ってみると、学校内は何となくざわついていて、今年は卒業が十二月となり、みんな就職運動を始めているという。大会社の採用試験も十月一日から始まるという。従って卒業試験も十二月に行われるという。それまでの優雅な気分は一度にふっ飛んですっかり面喰ってしまった。然し時がたつにつれて卒業論文は卒業後の提出が認められるらしいとか、軍の要請で落第は無いらしいとか、いうことが分ってきて少しづつ気分が落着いてきた。とは云うものの就職運動だけは何としても手を抜く訳にいかない。そこで大林良一先生にご相談すると「東京海上」ではどうだとおっしゃる。東京海上がどんな会社か知らないが、先生が推薦して下さるなら間違いないだろうと、まことに横着な考えで同社の欧米部長をしておられた橋本先輩への紹介状をいただいた。早速翌日同先輩を白金のご自宅にお訪ねした。いろいろお願いをして辞去したが、ご夫人が英国の方であるという話を後できいて自分のような貧乏人のゆく会社ではないのではないかと不安を感じて余り気が進まなかった。

 これは後の話になるが、東京海上に就職が決ってから数日後、高部文男君から校庭で話しかけられ、それまで一面識もなかったのにどうして私のことを知っておられたのか「就職が決っておめでとう。僕は大正海上へいこうと思ってある先輩のところへ面会に行ったが、その先輩がショボくれていたので第一印象が余りよくなかった。また大正海上という名前も気にいらないので三井物産にゆくことにした。」と云っておられた。あの時の高部君を今だに忘れることが出来ない。渡英後二度南方からお便りをいただいたが、今消息不明とのこと、どうしておられることやら。

 さて私の方は東京海上一本でゆくこととして採用試験に臨んだが、当日控室で二見君に会ったが、同君とは教練で小さい組のメンバーで一応面識はあった。又今村精嘉君が話しかけてこられ「自分は○○汽船を受けたがどうも気が進まないので、そちらを振って東京海上へ来た」と云っておられた。私達の運命はこうして決められていった。

 いよいよ卒業試験となり不勉強のまま試験を迎えた。見習士官が不足しているので全部卒業させるらしいという噂に気分的 には楽であったが、それでも最後の試験ということで頑張った。そして試験の真最中十二月八日朝、校門前の食堂ナイルで朝食をたべながら開戦のニュースを聞いた。

 その後、田中誠二先生(私は田中ゼミ)は戦争のことについて「これは大変なことになりました」と、今から思えば敗戦を或る程度予測しておられたのではないかと思われるお話をおうかがいしたことを覚えている。

 卒業すると殆んどの学友は二月一日に応召された。金子太助君を世田ヶ谷の部隊へ見送りに行った。渡辺公徳・野地忠平の両君には見習士官当時お目にかかった。特に野地君には、愚妻が当時広島に住んでいたので広島被服敞に在任中お目にかかる機会を得た。その後ご承知の通り広島は原爆の洗礼を受けたが、その時は既に野地君も愚妻も同地を離れていて難を免れた。
 
  私もとうとう十九年六月一日召集され中部二十二部隊に入隊し真夏の中で死ぬ思いの猛訓練を受け、B29の爆撃に何度かさらされたが運よく生き延び終戦を迎えることが出来た。