七組   壷井 宗一


 人生というものは、ひょんなことでどう変るかわからないものだ。

 三十年をふり返ってみて、つくづく感じることである。 まづ私が故米谷先生の門を叩いたのも、何も法律が好きであったからではない。先生が郷里の岡山の中学校出身であったこ と。奥様が私の田舎の隣村(今は同じ高梁市内)の方であったこと。先生の親戚が私の町の父の知り合であったこと等から、一橋に入って知人のないままに、紹介状を持ってお目にかかりに行った先生が、たまたま経済法の大家だったことが、私の人生行路の方向を決めてしまった。それでもはじめは、中学と一橋の先輩で三菱の重役である人のすすめで、商事に入社を決めていたのだが、先生の強烈な助言で(自分が五十才を越える年になって考えてみると、当時の先生は血の気の多い若造だったのに、抗し切れない威圧を感じて恐わかった)高文を受け、合格して鉄道省に入る破目となってしまった。卒業アルバムに書いたきざな自分の短文をみて、全く恥づかしい思いであるが、当時の戦時統制経済の怒涛を思うと、やみくもに突進したのだろう。

 さて希望官庁も、実は鉄道省に入る筈ではなかった・自分では商工省と決め、先生の紹介でかつての同僚であった同省の文書課長の内諾を得ていたのだが、これも妙なことで鉄道の役人になってしまった。というのは鉄道はパスがもらえるので、ただで好きな旅行ができるぞというだけのことで志願書を出していたので、実は試験当日に、少し早目に願い下げに行ったのだった。ところが一橋からたった一人ということなのか、当時の試験官であった監督局総務課長の佐藤総理から引き止められてどうしても試験場から帰らせてくれない。当時の金ぼたんの青二才は、「人生意気に感ず」で、とうとう鉄道に入ってしまっ た。勿論その夜米谷先生から大目玉をくって破門寸前だったが、「士は己を知る者のために死す」とか何とか、先生の好きそうな文句を並べたのが効を奏して、結局その夜は明け方の一時すぎまで先生とさしで大酒を飲み、中野から大久保まで歩いて下宿に帰ったのを、今は懐しく思い出す。

 その先生も今はない。私も鉄道省のお役人から日本国有鉄道という公社の職員になり、それから鉄道建設という公団の役員に転じ、今は会社の仕事に前だれをかけて働いている。 現業官庁でありながら戦前の法規の殿堂から、戦後の企業的経営へ。そして労働問題の大波に洗われて大きな変化をみせていった国鉄。その国鉄も来年は百年を迎える。戦前から戦後にかけての国鉄の体質の変化が、そのまま私の人生のめまぐるしい変化であったと思う。思えば短かくて、長い三十年であった。