七組   長谷井 輝夫

  大学を出て大蔵省に就職して三十年を経て今月(四十七年五月)同期生と夫人との記念パーティが開かれることになった。 この原稿を催促された日が丁度、長女が神奈川県葉山町に片付いて荷物を新らしい家に運びこんだ日であった。一種の引越しに違いない。トラック二台分の荷物を運びこんで身体はくたくたになると共に長女も離れて行くという複雑な気持になった。こんな事情から過去三十年の間に引越しを何と十三回行ったということが懐かしく思い出される。

 大蔵省に入ったのが昭和十七年一月七日、戦時中ということから半数は海軍主計中尉に任官して大蔵省を去り、若干のものが陸軍に応召し、残された数名も殆ど大東亜省に転出して内地に残ったのは、宮沢喜一君唯一人であった。私は十七年五月にバンコック大使館勤務を命ぜられ、十八年二月まで勤務したが、これは独身でポストンバッグ一個の赴任であるから正確には引越しの回数に入らない。当時の外交官補の連中が今では大使として活躍しておられる。大蔵省の友人は、一期上の塩崎潤氏 (後の主税局長、現在代議士)で、各省派遣の方々は、優秀な人が多く、戦後有名になった人が多い。他の省に転出する利点は、友人が多くなることでこの点今もって有難いことと思っている。

 敗戦の気が立ち始めた十八年の春、普通では乗れない民間機に便乗して帰国出来たのも運の良さであった。帰って来てすぐ結婚し、叔父の家にいたが、家さえあれば何処にでも赴任するという話が上司に伝ったとみえて、二週間目に門司税関に赴任することになった。普通は、税務署長をすませて部長に任命されるのが、いきなり業務部長になり、お年寄の課長の上に座るので、この間可成り気を使った。門司の葛葉の官舎で、空襲を受けながらの生活は必ずしもよいものではなかった。たゞここ の取り得は、外の景色が案外よかったことで、丁度目の前に巌流島が見えていたことである。終戦直後に和歌山税務署長を命ぜられて、殆ど着のみ着のままの姿で赴任し、家はないので友人の家に仮寓していたが、十月になって憲兵隊の隊長官舎が明 き、そこに住みついたが、畳が可成りとられ、二ヶ年、畳の足りない官舎ぐらしであった。赴任するとき孝子峠を越えた瞬間 に紀北の青々とした景色が目に入ったとき、美しいと思わず声を出したことを昨日のように思い出す。税務署の裏にある官舎なので、便利この上もなく、この頃から麻雀に熱中し、最も生活をエンジォイした頃である。やがて、銀行局に帰ることになり、暫らく伯父の家にいて、肩身の狭い生活の後に、やっと武蔵野市関前に自宅が求められた。狭い家であったが、外は一面の麦畑、隣りは可成り広い森の中の家という恵まれた環境であった。たゞ難点は駅まで遠くて、自転車で駅に行くことであって、その為、夜、早く帰るという習慣が幸か不幸かついたことである。専売公社に転出するまで、七年ここに住みついた。今でも残念なのは、転出して公社の宿舎に入る為、処分して了ったことで、如何に理財の道にくらいかの見本として親戚間に有名になって了った。公社では有名な払下げ事件の対象となった四谷大京町の宿舎に一年、あと青山六丁目の宿舎に三年、その後は大蔵省に帰り目黒の大橋住宅に引越。ここは出来たばかりの三DKの宿舎で本省の課長クラスの宿舎で各省の人がいて ここでも数多くの友人と知り合いとなった。今の大橋の通りは東京中の一番交通の難所であるが、当時(昭和三十四年から七年)は未だ玉電がゆっくり走っていた。十年一昔という感じが深い。始めてのアパートぐらしも仲々便利で楽しいものがあった。三十九年、大蔵省をやめた退職金その他でやっと南大塚に自宅を作り家族は落付いたものの、三十七年から一年半大阪税関長を命ぜられ、遂に八年有余の阪チョン生活が始まった。大阪税関長官舎は、東区の町のド真中に、国税局長、財務局長 の宿舎と三軒、並んで国有地に建てられたもので、平家三十五坪のもので、便利ではあるが、何分中小企業の町の真中ということで何か違和感があった。入ったその夜に泥棒が入りかけて、丁度九番アイアンを持ち出して大声を出したら、二人が塀を こえて逃げた。このことが後に、泥棒と取組み合いをしたという些か不似合の伝説が生れることになった。この官舎は現在、市有地と交換になり公園と変り昔を偲ぶ姿はない。三十八年暮れに退官し、現在の幸福相互銀行に就職し、仮寓を住吉区に求め、半年で西宮の甲東園の二階建の木造の三十五坪の家(社宅)に入って七年過した。ここは甲山の山麓で、散歩するのに実によい道があり、ゴルフ場は近いし、家族と一緒であったら、理想の住み家であつた。独身で過す為に改めて西宮の夙川にマンシォンの一室を借りたものの、家族と離れてくらすのは無理で(これまでは手伝人が割によく来てくれたが、一昨年辺りか ら個人で人を使うのは全く無理となった。)仕事の関係もあり、昨年から東京に引き上げて用事のある度に大阪の本店で勤務することになって、、氷い遍歴の旅に一応終止符を打つことになった。というものゝ、今年を顧り見ると、大阪は大体毎週行っているので東奔西走の日は今後とも続くに違いない。

  ここで十三回の引越しを反省して見ると、やはり、小さくても庭があって、植木をやったり、出来れば金魚か鯉かを飼う場所がほしいこと、更に散歩道に恵まれると理想の住み家となるということであろう。東京に帰って家族と一緒になれたことは何よりの有難いことであるが、散歩道がないことが今の家の難点であるが、その程度は我慢しないと無理かも知れない。とも角、日々是好日という日を過しておることは有難いことである。