六組 山本 浩次
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一、 そもそも十二月クラブの皆さんとの出会いも偶然の出来事である。中学四年の春、上海へ遊びに行ったので高校受験の機会を失ない、昭和十一年在京某私大予科へ入り、一家を挙げて明石から玉川奥沢町へ移住すべく準備を進めていた処、模擬試験のつもりで受験した予科の発表を、七組の木村久雄君が専門部の発表を見に行くというので、一緒に付いて行って見たら どういう風の吹き廻しか合格しているではないか。どちらにしようかと迷ったが、こっちの方が早くレギュラーになれるだろうとサッカー部へ入る事に決めて、玉川の家を断わって荻窪に住みつく事になった。 二、 桜井から山本に姓の変わったのは、大学一年の年度末試験を受けるのが何となくいやになって、一年留年する事を条件に養子に行った。これが今迄生きのびた一つの要因であろうと思う。留年したので皆さんの卒業、入営を見送ってから、昭和 十七年三月サッカーの合宿でかぜを引いて高熱が続いた。その直後に徴兵検査である。結核の疑いで首尾よく?丙種合格、第 二国民兵となつた。就職試験も丙種合格ではと首をかしげられ重工業は駄目、やっと現在の会社に拾い上げられた。 三、 昭和十九年六月、三宿の十二部隊に召集入営、外地派遣の部隊が何度も編成されたがいつも残留、馬の足を洗っている内に東京空襲が始まった。或る夜、うまや当番をやっていると焼夷弾が目の前に落ちて眼鏡のセルロイドと帽子の下にはみ出ていた頭の毛はこげたが身体は無事、その後穴掘りや、さつまいも造りをやって、終戦を八王子の田舎で迎えた。 四、 早速会社に復帰して人事部で外地引揚者の世話をしている内に戸辺君も帰って来た。その後、労働組合法が施行されて初物喰いの性格から組合の結成にも顔を出した。包装資材、文書と仕事は変ったが、全国十一工場あるというのに工場勤務は応召前の一年間横浜工場丈け、これも荻窪の自宅から通勤したので殆ど転勤の味を知らない。 五、 昭和三十七年、昔の人事、組合の経験を買われてか人事部へ、爾来何となく過して了った。入社一年で結婚したので子供は男二十七才、女二十五才、高砂委員会のお世話にもならず共に昨年結婚、ほっとする間も無く、今年の二月と三月に双方女児が出来た。突然の病気でショックを受けた女房も、孫の面倒で病気を忘れて大活躍。私も退職金を貰ったが積もった借金でパア、働らける間は働かなくては生きて行けず、楽が出来ない方が身の為だと自分に云いきかせている次第である。 |