一組  本宮 荒砥


  六年足らずの一橋の生活をふりかえってみてやはり最初の小平の一年間のことが一番強い印象を残している。然し日記その他の記録を一切残しておらず、それに幸か不幸か至って物忘れのいい方なものだから、あの頃の事を思い出そうと思っても、 さまざまな光景がきれぎれの断片になって交錯しているだけで、まとまった回想など一向に記せそうにない。

 思いもかけず入試に合格して入学の許されたことはたしかに嬉しかったが、それより寮に入らねばならぬことの困惑が大きかったことははっきり覚えている。生れつき人づきあいが大の苦手で、大げさにいえば小学校以来周囲との調和に苦しみ、団体生活が苦痛であった。それだから高等学校の野蛮な寮生活を話に聞くだけで怖気をふるっていた。一橋には寮はないと思っ て試験を受けたのに約束がちがうといいたいところだが文句のもっていきどころがない。屠所に赴く羊よろしく上京したのだが、やはり一年間何かと閉口しつゞけた。然し伝統のないところへ強引に高等学校流のやり方を導入された当時の上級生も大分無理をしておられたのではないか。

 去る四十四年末まで四年余広島に暮して、家業の材木店の専務をしておられる杉山来蔵さんには如水会の会合の度毎お目にかゝった。福山在住の佐藤嘉祐さん(旧名哲士)にお会いする機会もあった。両先輩とも情熱をもって寮の運営に当られた当時のことは青春の貴重な思い出としていつもなつかしんでおられるようであった。勿論こちらとしてはあの寮生活には閉口し ましたと言い出せたものではなかった。寮の生活になじめなかったのは、当時の私がまだ精神的に稚くて、中学生そのままの延長であったことにもよるようである。一年間授業に皆勤であったことでも精神構造がご理解いただけようが、太田可夫さん の講議など全くチンプンカンプン、多くの寮生をとらえていた人生問題の悩みにも全然理解が届かなかった。我儘を通して、 同室の高橋義方さん、泰地、横山両兄はじめ寮生諸兄には随分ご迷惑なことも多かったであろう。顧みて汗顔の至りである。

 二年に進級すると国立の一橋YMCAの寮に移った。学部、専門部、予科混成の寮であり、最年少の寮生として相変らずの体たらくであったが、徐々に精神の成長の機会を与えられたと思う。大堀寮母さん、秋山東吾さん、正岡敬さん、秋山博さん、須川浩さん、長田房雄さん、故桜井信行さん、倉光和夫さん、小島巽さん、何れも可愛がって頂いた懐かしい方々である。

 国立から小平へは二年間自転車で通学した。中古の安物であったせいかよくパンクして、何しろ畑ばかりの間を抜けて行くので途中に自転車屋などはなく、その時は押して歩く外なかった。休日には東は調布から西の多摩御陵の辺までを縄張としてこのボロ自転車でよく遠出をしたが、あの頃の武蔵野の風物は実になつかしい。雑木林も陸稲の畑も芋畑も梨畑も、そしてあの多摩川の澄んだ水も、恐らくはもう再び見ることは出来ないのであろう。

 自然に親しんだのはよかったが、そんなことで交遊はYMCAの範囲に自然狭く限られた。級友諸兄には相変らず固い穀にすっこんでいる姿をお見せしていたことと思う。穀からやっと脱けられたのは、卒業後四年間の軍隊生活を経、更に数年のサラリーマン生活を経験した後であったようである。穀の中にいただけに、中身にはまだ充分大人になりきらぬ部分を残しているのは困ったものだ。そんなことで、あの頃の級友との交遊をおろそかにしていたことが悔いられてならない。昔をとり戻す由もなく、たゞ今後は十二月クラブの交りを一層大切にしてゆきたい。