七組  枝広 幹造

 日米開戦というあわただしい時に卒業を迎えて以来既に三十年の歳月が流れた。卒業といえば希望に胸をふくらませて社会へ飛び立つことを思うべきにも拘らず、我々のそれは、戦争、兵役という暗い影におおわれた、凡そ将来の希望に向って勇躍踏み出して行くといったものではなかった。眼前に迫っている入営ということが重く心にのしかかる卒業であった。
 
 それにしても私の大学生活で得たものは、あの生死をかけた戦争、戦後の最低生活を過しても、今なお脈々として私の心の中に生き続けている。それは何故か。
 
 山口時代に哲学の先生であった滝沢教授により火をつけられ、大学では幼な友達の○君から更に突込んで教えられた人間の生き方。如何に生くべきかという問題。人間の価値は窮極的にはどこにあるのか。阿部次郎の考え方からトーマス・ヒル・グ リーンの思想へ。そして凡ゆるものの価値判断の基準を把握し得たと思ったあの青春の思えば懐しき時代。そしてそんな考え方をはぐくんでくれた国立の学舎。特にあの入っただけでし−んとしてくる落ちついた雰囲気の図書館の重々しい感じは、あの人格主義という思想と切り離しえないものである。
 
 その後、凡そ思想というものの許されない絶対主義の軍隊生活、何故という反問を許さない生活の続いた四年間。それは私の人生にとっては全くマイナスの生活であったと思う。考えることを失ったものに進歩はありえない。今にして思えば、あの保定の予備士官学校の教室に掲げてあり、常住座臥、服用させられた「至誠黙々実行」という言葉、これは軍が戦斗を実施するために必要不可欠の鉄則であり、下級指揮官を含めた軍隊の大部分を思い通りに動かすための準則であったと思われる。ひたすらいわれたことを黙々として実行していたのでは、人間の進歩はありえないと思う。この中には、我々が学生時代に学ん だ批判的精神というものは一片も見出せない。
 
 芥川竜之助が「侏儒の言葉」の中でいっている、胸に勲章を下げて喜ぶのは軍人と子供位だという言葉、勲章のために勇戦奮斗する職業軍人。全く私達が学んだ考え方からすれば、噴飯もののことが堂々と然も当り前のような顔をして通用する社会における生活は、私にとっては、次第にそんな考え方にならされて行くという点で、後退の連続であったと思われる。勿論軍隊という閉鎖社会には、それはそれなりの存在理由があり、一般人が学ぶべき点があることは事実であろう。然し、不孝にし て小隊長クラスの私をとりまく軍人社会の人々には、あの沖縄戦における三原高級参謀の如き考え方をもった人はいなかった。
 
 それに続いて挫折感にうちひしがれて復員してきた戦後の日本、ただがむしゃらに生きて行かねばならなかった敗戦社会における生活。社会的地位とか、名誉とかを求めて働き続けるということは誤っているのだという考え方から、どうしても抜け切れず、自然ポストというものへの執着をとりはらうために特に努力して行った生活が続く。やはり、そういう形式的なものは人間の真の価値判断の基準にはなりえないのだという考が終始つきまとう。
 
 それでは一体何が我々の生活、生き方の基準となり、目的となるのか。これは未だに私の中で生じてくる疑問であり、或は終生つきまとって行くのかも知れないと思う。
 
 一度でよいから大臣になりたいと猛運動をくりひろげる一年に一度の組閣時の有様をみても、何故あのように閣僚という地位にあこがれるのであろうかと思う。それが本当の人生なのだろうか。一般に社会的地位によってその人の価値を判断する社会では、大臣は或は最高の人間的価値を示す地位であり、形象であるかも知れない。然し阿部次郎やグリーンの考え方からすれば、それは全く逆の様相を示すことになる。現実の社会をみて、私はやはり真実の価値判断の基準は、社会的地位とか勲章とかではあり得ないと思えてならない。それは青春時代にとりつかれた考え方が、戦争、戦後を通じて私を支配し続けてきたからだ。幸か不幸か、それ以外の考え方、生き方が私に影響を与える機会がなかったからであろう。それが果して私の人生にとってプラスであったか否かは、これは又別の問題である。