四組   武川 祥作


  人生五十年で、戦争と病気と、 二回程生命をおびやかされながら、運よく生き延びたものだ。あとは余生という程、悟って もいないが、でも此の頃ふと憶い出されるのが亡友達である。

 大迫君は、湘南の田舎の真面目中学から出て来た私には一寸した驚異であった。何となく向学の念にもえて一橋寮に入ったのだったが、全然学業を放棄しているかに見えてちゃんとやっているのには全く異人種の如く見えたものだ。その間に、盲腸炎、河北病院へ入院、彼の父の強引な病院内でのお灸療法、院長の激怒、我々の困惑、彼の無関心、といったものから偶然、 彼のなまの人生に触れたこともある。寮の風呂の中で、白粉臭い手拭を身の先にひらひらされたのには閉口だったけれど、記念祭の脚本選びで一緒に図書室で徹夜したのは楽しかった。彼が生きていたら、相変らず私に驚きと尊敬の念を与えつゞけていたろうに。彼は比島で亡くなった。

 山田音次郎君は、学部で山口ゼミが一緒だ。彼は大迫と丁度正反対ではなかったか。父君を早くに亡くしたと言っていたが その遺品と思えるラッコの襟のついたマントを愛用していた。常に勉強、常に真面目、そしてやや古風な理想主義。今になってその課目が憶い出せないが、学期試験の最中に、どうしても自信が持てないから受けたくないとゴテ出して、何の因果か、慰ぐさめ役となったことがあるが、その彼が卒業の時に答辞を読んだのには驚いた。今でもあの彼の名文は頭に残っている。 外交官試験を通って、今生きていたら、輸出部担当の小生に英語の一つも教えてくれているだろうに。いやもっといろいろと教えてもらっているだろうに。