七組   佐藤 丈夫


  僕と出合との交友は、横浜高商同期生としてはじまった。すでに数奇の生活をたどり始めていた年長の彼は、およそ人生の一端をも知らない一中学のポット出の私にはとてもついてゆけず、二年目になって同級になっても、しばらくは彼のよさがわからず、むしろそのふてぶてしさに反感すらいだいていた。共通の友達を介して、私達の交友は徐々に熟していった。商大進学がその大きな契機となって、十数名のグループが一層親密になった。「櫟の実」(ドングリの意)と称する回覧誌まで生れて思い思いの所懐が盛られた。何かにつけては集会を持ち、駄弁っては飲み、飲んでは駄弁るならいだった。つい昨日のことのように目に浮ぶ若き日の交友の絶頂で懐しい極みである。

 出合の生活は不覇奔放のものであり、従ってそのつながりは流転の生活として跡づけられる。高商時代、みずから苦学をして、夜学教師をつとめながら、優秀な教え子に貢いでやったり、警視庁ガイド資格等もつぎつぎにとっていった。つまらない講議の折には油気のない、やや赤味がかった長髪をしづかに、片手でかき上げながら、部厚い法律書などを読みふける彼の姿 が今も眼に浮ぶ。勝手なことをしているのだから、学業成績のよいはずはない。しかも当時、難関とされた高商から商大への入試をゆうゆうパスしたのも、幼少時代、転々と転校しつつも、いつも級長、総代をつとめたという彼の非凡な素質によるものだ。そういえば、当時、高商校長との卒業対策面接で「君位の成績で、商大に合格したものはいないのだから、就職しなさい」といわれたのに対して、「僕は合格するにきまっているから受けます」と応酬したという事実こそ、彼の真骨頂を示すエピソードと云える。彼の反骨精神躍如たるもう一つの思い出がある。卒業試験の一つの提出自由論文を、横浜駅でことづかっ た私は、読んでもよいということだったので、車中表して、果してこのまま提出してよいのかととまどってしまった。「自分は共産主義をそのまま信ずる者ではないが、しかも、かのマルクスは、資本論中にかくかくと書いているが、この文章には少なくとも、理屈をこえて人間の血と情熱がかよっている。しかるに、先生の講義は無味乾燥で云々」と、当時、新鋭と評判の高かった某数授をこきおろしているのだった。

  軍隊に入ることを信念に反するとして、彼は通訳として、卒業を前にして、シンガポールに渡った。マレー労働協会を組織 して活躍していた彼の様子を、何人かの母校の教授や、知人から思い出として聞いたことがある。

  戦后、横浜貿易協会の主事として、昔懐しいハマの港の一角の焼け残りのビルの最上階の一室で、生き生きとした再生の姿をみせていた彼が、やがて不純をきらうその信条から、理事連と相容れず、惜し気もなく去っていったのも印象的だった。大学で教鞭をとったり、兵庫県に籍をおいて、多くの中小企業の面倒をみたり、彼の戦后の生活史は、今后伸びんとするもの、又は弱きものの徹底的な味方たらんとする彼の生涯の悲願を、直進追求したものであった。

 「そろそろ東京に帰りたくなった。学校の口を探してくれ」と依頼してきたのは一年少し前になる。東海大学の新しく発足する商経学部の教授として上京することが出来たのが、この春の新学期。「よい教授陣を整えようという方針にぴったりで、出合先生は、本当に献身的な努力をして下さって・…」と葬儀にさいして、同大学の一教授は真剣なまなざしで述懐してい た。車の運転を始めたり、久しく放っておいた歯の治療を始めたり、彼の新しい人生は急ピッチに広がりつつあった。「本当に喜んで張り切っていたのに…」との遺族の言葉を裏書するように、彼の机上には、書きかけの原稿用紙がひろげられたまま残っていた。

 出合のこうした人生の歩みは出合家の血統ともいえる。彼は、愛情と誇りをこめて、「出合家」と云う言葉を使った。鳥取の山奥の名士として、信念の道を歩んだ父母や、時に親に代って、面倒をみてくれた長兄に対する絶大な敬愛の念。彼はここに精神のバックボーンをおいて、個性豊かな独自の人生をつづっていったのである。

  飄然として現われたり、突如として消息を絶ったりするのが得意だった彼。彼の死も、その一コマのように余りにもあっけなく、意外な出来事だった。だが、もう思いがけずやってくる彼を期待することはできない。えくぼのへこむあの笑顔をみることはできない。これが人生だと云ってしまえば、それまでだが、何としてもさびしく悲しいことだ。                             

                                               (通信第十二号より)