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池田歳正が亡くなってからやがて十年近くになる。 体躯短細なれど 肝斗の如く 頭脳明晰にして 回転早く 緻密な計算のもと 大勝負決行 友と酒とそして濃やかな人情 スポーツマンシップとフェアプレイ 今静かに回想すると、彼の強烈な個性の一端を表現するこんな対句が浮んで来る。 国立中和寮時代のエピソード 中和寮のソロバン大会に優勝した彼は其直后某夜忽然として蒸発した如く消息を絶った。 丸一日武蔵野の原野をさまよったであろう彼は青春の悩みを解決した如く、其あとの卓球大会で当時東京大学リーグで一部に昇格していた全一橋の代表選手足立さんを打破って関係者を驚愕せしめた。囲碁は彼の最も得意とする処で五段に迄昇格し た。将棋も天才的な処があり、全一橋の代表選手にも推せんされていた様だった。この様にインドアスポーツでは天衣無縫、向う処敵がなかったが、彼はアウトドアスポーツ(野球、テニス、ゴルフ等)も好んでよくやった。僕はインドアでは彼に歯 が立たなかったが、僅かにアウトドアで彼を負かしてウサを晴らしたものだ。 専門部を卒業して日本水産に入社した彼は日ならずして時流を見抜き、僅か数カ月の準備の後、難関の学部入試に成功、米 谷ゼミに投じ、高潔、清廉、且つ強烈な個性の持主である先生と幾多の俊英の中でもまれて更に大きく伸張した事は想像に難 くない。 学部を卒業した彼は超一流のメーカや商社等には見向きもせず、彼の選んだ野村貿易に入社した。そして戦争−戦時中は之も悪運強く会社に残り専ら南方貿易に活躍した。そして戦後十年余り、彼は米国に駐在勤務する事両三度に及び、懸命に会社に貢献したその功が認められ四十才を僅か過ぎた身で野村貿易の取締役に躍進した。当時ブラジル、ウジミナス製鉄所に出向勤務中であった筆者は、彼の昇進を当時の米国のヤング、プレジデソトケネディ氏になぞらえて祝福したものだつた。 然し乍ら向う処敵なき如き彼の最大の敵は病魔だった。生来胃腸に自信のなかった彼は後半肝蔵を病み、昭和三十八年米国勤務より帰国后、入院加療、一時奇跡的に回復したが遂に巨星再び立たず四十七才の人生を太く短く閉じたのであつた。 今彼は鎌倉の地に安らかに眠っている。そして現在遺児は健やかに成長し、長女桂子は来春のキリスト教大学卒業を控え、 今十二月クラブ旧友各位の暖かい心づかいを得て、新職場に就職直前であり、次女洋子は目下成城大学二年生に在学中、未亡人良子も健在である。
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