七組  佐田 健三

 
  若くして戦場の露と消えた中世古君の一竹会での思い出を綴ることによって同君の冥福を祈ることとします。一竹会(琴古流尺八同好会)は常盤敏太教授夫妻の尽力を得て、斯界の大家山口四郎師を師範として、私達が学部一年の時に創設された。前の学年に比し、私達の期は余り振わず中世古君のみが独り活躍していて辛うじて数人の同期の会員を引っぱっていました。私は一橋観世会の幹事をやっていましたので、一竹会の方は中世古幹事のもとで会計幹事をやっていました。

 昭和十四年三月四日に一橋講堂で第一回の一竹会尺八演奏会が盛大に催されました。当時二年生の私達十名程は二ヶ月間猛練習のすえ、当日一橋講堂に満ちあふれる聴衆の前で、「六段」と「黒髪」を胸ふるわせながら出演しました。

 二年になると同期のものは減りましたが、有力な1年生会員を獲得して、一竹会を盛り上げていった中世古君の功績は大きいと思います。二代目はとかく影がうすくなりがちですが、昭和十五年は、たまたま皇紀二千六百年にあたり、一橋文化部の なかでも邦楽同好会の活躍が期待されていました。同年の秋、田辺尚雄先生の日本音楽に関する記念講演が兼松講堂でありました。その講演の際に邦楽の実演をするよう講師の依頼があり、琴曲については「秋風」が所望され、出来れば宮城道雄師の演奏を希望されました。中世古君は一竹会幹事として奔走しましたが宮城先生の出演は困難なので、己を得ず山田流の大家上原真佐喜先生と一竹会師範山口四郎先生の合奏ということとなり、曲目は山田流の「松風」が演奏されましたが、邦楽会の両大家の妙音が涼秋の兼松講堂に流れて万堂に感銘を与え、一竹会の面目をほどこし、彼も胸を撫でおろしました。観世会も観世武雄師(現在の喜之師)の仕舞「熊坂」が演ぜられました。

 一竹会の第二回の演奏会は、昭和十五年十一月十日一橋講堂で行われました。この日はたしか皇紀二千六百年の記念祭に当っていたと思います。この演奏会準備のための彼の努力は並々でなく、夏休みが終ってからは連日一竹会のことばかりに追われていました。山口先生、常盤先生夫妻、筝、三絃の地方の先生方との連絡、番組編成プログラムの作製、自分自身の稽古はもとより、一年生の稽古も支援しなければならず、嫌な顔ひとつしないでよくやっていました。

 彼は温かみのある好青年で、また粘り強くシンのある友でした。尺八は飯より好きで片時も尺八を手から離さず、よく練習 していました。彼の竹の音は「チ」などの音はスリ出してから当るというクセがありましたので彼が吹奏していると、遠くか らでも音の主が彼だと解る程でした。

 昭和十六年十月二十六日の一竹会第三回演奏会の時には、外務大臣佐藤尚武氏が一橋講堂に見えられ、われわれの拙い演奏会を聴かれ、またわれわれ会員と共に記念写真撮影にも応じて頂きました。 その日は三年生で単管で演奏する自信のあるのは中世古君たった一人で、彼は楯久矛陽先生(当時は二十才代の美しい方でした。現在は故加藤矛子師の名蹟を継いで居られる筝曲界の大家です)の三絃と、高萩氏(如水会員で当時三菱鉱業重役)令嬢の筝の地で「浮舟」を演奏しました。「浮舟」は松浦検校作曲で源氏物語後段の章で薫君と匂宮の二人の美男におもわれた女性が宇治の流れに身を沈めるという悲恋の主の物語を旋律にした曲だけに、誠に心を打つものがあり、彼の演奏は学生ながら曲の情趣がにじみ出ていて聴衆を魅了しましたことを懐しく思い起します。一昨年十月に一竹会創立三十周年記念演奏会が一橋講堂で催されました時、特に楯久先生に地をお願いして、中世古君に比べれば甚だ拙い私が「浮舟」を追善演奏させて頂き、三十年前のありし日の中世古君を偲びました。