七組 麻生 泰正
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この旅行は、大戦前夜とも云うべき昭和十六年の夏、緊迫した国際状勢の裡で特に石油資源国である蘭印と我国との関係は 国交断絶の手前という客観状勢にあり、旅行中もその雰囲気を感じられる程であった。然し我々の旅行そのものは、学生時代 の強烈な印象として折にふれて追憶される楽しいものであった。スマトラのタンジョン、パトキラで終った旅は、現在のよう な強行軍ではなく、彼のスケジュールの程良い速度により穫り多いものとなった。 この旅を通じて更に彼の人柄のよさ、誠実さを理解し、彼が昇天するまで、会い会うことも多くはなかったが、生涯の友として敬愛して来たのである。戦後、私は北海道で約十年過したため、会うチャンスはなかったが、帰京後は、時々、お互の苦斗時代、家庭の話、今後の生活方針などを語り合った。アラ石に入社の時は彼の人生の転機であり、彼自身も相当の決意を要 したことは当然であり、特にクエートへの赴任については家長としての責任を深く考えていたようであった。第二次のクエート駐在前の本社勤務中には、正月休みに山崎坦君と共にゴルフをすることが行事であった。その楽しみも、既に空しいものとなった。 一番の心残りは、鎌倉の新居である。一昨々年休暇帰京の折土地の選定、新築すべき家、などについて多少の相談相手になっただけに昨年末落成した新居に一度住まわせてやりたかったし、せめてものなぐさめは、遺された夫人と子供二人に立派な財産を残された事である。見舞に行った時「家が出来上ったら、是非家で一杯やろう」と言った言葉には、彼の再起不能を察
していただけに胸がこみ上げてくる思いがした。親しい友の死は、若い時と違って、寂しさと命の儚さを感じる。老境の入口にある年令のためであろう。この上は未亡人と二人の子供が、親父を誇りに思って健勝に過されることを祈るのみである。 |