一組  三嶽 恭二


 学窓を巣立って三十年、ふり返って見れば小平、国立のころの思い出は、遥かに遠く山波を眺めるが如く、しかと見定める ことはできないが、どこか見覚えのある峯の姿に云い知れない懐しさを感ずるのであるが、その中に一際大きくかつはっきりとした姿を見せて、何とも説明はできないが唯々無言の中に頭の下がる敬慕の思いに躯り立てられるのは三浦新七先生の思い出である。

 三浦先生の年譜によれば、先生が例の白票事件収拾のために郷里山形から出て見えて、東京商大学長に任ぜられたのは昭和十年十月であるが、事件落着とともに翌十一年十一月には早くも学長を辞任され、十二年四月には名誉教授になっておられる。われわれが一橋に入学したのが昭和十一年四月で、当時の学長が三浦先生であったから、先生とわれわれの間に何か浅からぬ因縁を感じたとしても別に失礼ではないであろう。とにかくあの見事な銀髪と葉巻に象徴される^^颯爽たるお姿と名講議は、たとえ講議の内容はよく分らなくとも当時のわれわれを魅了せずにはおかなかった。

 昭和十四年われわれが本科に進んだころ、先生は本科で「文明史」の講議を担当しておられた。講議はたしか毎週水曜日の午后で、内容はシナ古代文化に関するものであった。支那事変の最中という環境下にもかかわらず、シナ文化や東洋文化の講議は当時の学生には何か縁遠い感じがしていたのか、講議を聴く学生の数はいつも大抵十数名であった。少数の学生の中にまじっていつも当時助手であった増田四郎前学長の若かりし姿があったのは今でもはっきりと記憶に残っている。

 学校で「文明史」の講議のあった水曜日の夜は、特別の事情がない限り本郷赤門前の先生の定宿である大津旅館で読書会があった。メンバーは本科生十名足らずであったが、いづれ劣らぬ先生の崇拝者ばかりが揃っていたので出席率は相当よかった。学校の単位とは全く無関係な読書会で、しかも夜間本郷まで出掛けての会合であったからメンバーの勉学心は純粋なものであったといえよう。読書会のことはいづれまた機会があったら書いて見たいと思うが、ここでは先生の思い出として読書会の一シーンを書いておきたい。

 それはある日の読書会のことであった。もう前后のことも殆んど記憶にないが、たゞ先生が「学問では安心立命は得られな いんだよ」ということをいわれたのが、三十余年后の今日でもなお脳裏から消え去っていない。あるいは特定の人、例えばマルチン・ルーテルに関する話しから出てきた言葉かも知れない。しかしむしろ先生ご自身の体験から出たお言葉のような感じもするのである。先生が安心立命を目指して学問に志を立てられたとはいわない。しかし先生を学問に駆り立てた動機に安心立命を求める気持がなかったとは断言できないであろう。しかも先生がご自身の体験で安心立命を求める過程で学問の限界を感じられたとしたら・・・。その可能性は全くないとはいえないような気がする。とにかくこの言葉があの一代の碩学の口から出たのである。

  三浦先生が亡くなられてもう二十四年が経った。しかしこの言葉のもつ印象は、一年一年ますます鮮烈になりつつある。