四組 戸館 博
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今は亡き大迫千尋君、落合雄太郎両君の手紙があるのでそのまゝ一部転載させて頂くこととする。夫々に両君の人柄も、その当時の気持ちもよく出ていて懐かしい。
小生は神戸支店へ転任と決りましたが、さてその期日たるや未だ曖昧模糊として決定されておりません。或は小生が第二乙でいつ召集がくるかも分らぬ点よりの考慮かも知れませんが、第二乙の半分は、現役編入だとか、或る第二乙種合格者には、 兵科が通知されたとか、様々な悲報を耳にしては、たとえ仕事を与えられたとて満足に出来そうもなく、この点、会社の部長 さんは仲々先見の明ありと云はねばなりません。 たった一人カウンターに向ってちびりちびり杯をふくむ様子は、自分ながら、しみったれた安サラリーマンの感じで、何だかひどく心寂しいものがあります。今までは酒をのめば多少とも楽しかったのですが・・・。 先日会社の女事務員と仲好しになって映画を見に行きましたら、翌日お叱りを受けました。誰が見ていたのか不思議ですが どうも僕の常識では割り切れない世界です。先方もそういう感じを小生に持つのでしょう。例の××部長さんはしきりに、僕にあてつけた様な事を喋っています。食堂で僕が大声で笑ったら、みんな僕を振り向いて怪しからぬという様な顔をしています。実につまらない人間の集りです。で僕はラヂオ体操が始まると屋上でたった独り体操をやり、心の鬱血を解くように努めています。やがて我が大日本帝国のために剣を取るかもしれぬ兵隊ですからね。すべてを無視して自分流にやるつもり。 君の真似して会社でこの手紙を書いている。他の人達は、書庫から持ち出した倉庫関係の書類を読み耽っている。重役の椅子が眼の前にぶらさがっているような顔をして。
ご健康で結構でした。いづれ何処かでいづれの日か、お逢い出来るものと思い、その日を楽しみ乍ら筆を擱きます。 敬具
僕はこの頃つくづく人間生活の果ないことを感ずる。国家と云い、経済と云い、戦争と云い、大きな自然の目から見た時、何と小さな些事であろう。会社の社長になっても、大臣になっても、大学教授になっても、享年、六十年すれば冷たい土に帰する丈だ。僕は此の激しい国家的熱情の湧き立っている時、こんな考えを持つのは相済まないとは思うが、然し真実はあくまで真実だ・・・・・。この世に実在するものは、只神と我とのみ。僕は貸借対照表の中に神を見る。買掛金の仕訳を済ませ、借方、貸方がぴったり合った時、全身に溢れる喜びを抑え切れず、寒風の吹き荒ぶ丸の内街を大股で歩き抜け、灯る東京駅か ら帰途へつく。日本製鉄株式会社経理部主計課決算掛、僕は此の自分のポストをこの地上にかけ替えのない書高の役と思 う。利根の流れもそろそろ温む頃だ。梅は綻びかけた頃だろう。或は菜種もちらほら咲いている頃か。いつか赤城山の頂上か ら眺めた大利根の流れの悠々たる、日鉄の八幡製鉄所製作の磨きのかかった一級品の鋼鉄の様なぎらぎら光るあの銀の帯が流れ流れて茫々たる黒潮にそそぐ所、そこに働いている君を羨しく思う。 庭の花壇の凍り付いた土の下でも水仙の芽がやがて来る春を待ってふくらんでいる。うんと働こう。若いのだ。若し召集がきたら勇ましく銃を持って出よう。唯一の生命は神に預けて・・・。 商売が醤油だからと云ってせち辛い生活に陥らない事を祈る。理想と(僕の場合は信仰と)若さとは、総ての現実的些事を超克する。 働こう。春が来るのだ。 |