七組  岡本 不器男


  三井物産リース部におりましたが、部が独立して三井リースとなりましたので、そのままこちらに出向しております。

 昭和二十二年の暮、ソ連より復員し、数年後に家庭をもちました。子供はICU一年の長女を頭に二男二女。のびざかり、 たべざかりで家内は洗濯やら弁当作りに追われています。

 戦時中は、熊本の野砲兵連隊を皮きりに、新京、間島、渾春、吉林、鞍山、鉄嶺、羅南、タンボフ州ラーダ、タタール自治共和国エラブカ、と場所が変る毎に学友に会い、大いに心強い思いをしました。

  その中で、大迫兄がレイテで戦死された由残念至極です。熊本の野砲隊に一つ星で入営する時、雨の営門前で傘をさした制服制帽の彼に会い、驚ろきました。夫々付添の人と別れ、三つの中隊に分けられ、兵舎に入って見たら寝台一つおいて隣りに 彼がいました。現役のくじのがれで、私は召集一号、彼は三号というわけです。彼の東京からの送金先は私の熊本市に住む叔父の家でした。演習の時は、落伍しそうな文学青年の彼を後ろから交替でおして走ったこともあります。

  昭和十八年一月、新京の経理学校卒業後、彼はずっと海拉爾にいました。昭和二十年の春頃と思います。海拉爾の軍が南方 に移動したとの噂を聞きました。まもなく私も関東軍経理部鉄嶺出張所から朝鮮軍に転属し羅南師団の歩兵七十六連隊改編部隊の主計として、終戦をしらされないまま、ソ軍と清津で一週間を烈しく戦い、危い所を命びろいしました。

 今年九月十二日の十二月クラブ例会で拝見しました物故者の消息表では、大迫兄のところが殆んどブランクになっておりましたので、どうか御遺族の方と連絡がつけばよいがと思っています。