四組 望月 継治
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水 の 心 一橋大教授 太 田 可 夫 僕は勝負の厳しさが好きだ。決まれば少しもあいまいな所がなく、文句のつけようもなく、言訳もきかないからだ。それに生れつき水が好きだ。だからというわけではないが、水の上の勝負、ボートレースが好きだ。東商戦も勝ってもらいたいと思う。勝負は水ものだという。本当にそうだ。先づ水の心を知らなければならない。水は何もしゃべらないから、そのままでは水の心は解らない。考え込んでも駄目だし、勝ちたい勝ちたいと叫んでも水にはちっとも通じない。何年も何年も水の心が伝わってくるまでオールで話しかけなければならない。ボートをやっている人は水の声を聞いたことがあるだろう。その人は幸せな人だ。それはある時、突然オールに伝わってくる。その時に水の心が解ったのだ。そうなればこっちのものだ。それにオールに伝わってくる水の声をメディアにして九人の心が一つになるのを動きながら、それこそ肌で直に感ずることの出来るボートメンの境地は羨しい限りである。 九人の中の一人になるのはなかなか大変だ。よほどしっかりと自分を決めなければならない。馬鹿になりきっていうまゝになってしまっては、物になってしまうし、自分の心だけが飛び出しては、九人がバラバラになってしまう。水の声を聞いただけで悔いないという心が自分を支えきらなければ自分を決めたことにならない。それも自分の中から湧き出してこなければ駄目だ。どこにも無理があってもいけない。こんな素晴しい体験を持てるボートメンは幸せな奴だ。それがボートレースだ。 ポートが好きだといっても何でもポートなら好きだというわけではない。僕は一橋のボートが好きだ。だから最後の思い出にと思って、この間戸田の艇庫にやってきた。そして驚いた。ここにいる若者は学校にいる若者達とまるで目付が違う。別の大学へ来たのかと思った。皆な生々している。これではボート大学でも作って、ゼミナールに経済学や哲学を開いたらいい。そうしたら経済学や哲学がぐんぐん伸びていくのではないかと思う。ポートをサボッてそれを夢中に勉強するからだ。恐らく今よりももっと生々と学問するだろう。 戸田には昔の若者達がウヨウヨしている。幾つになってもボートの事が気になるらしい。うるさすぎる程今の若い者の世話をやいている。この人達が又僕は好きなんだ。学生達はこの人達に頭が上らないらしい。年も若いし未熟だ し、教わることも多いし。仕方がない。若さというものはそういうものだ。しかし僕はボート部の先輩ではないから違った目でそれを眺める。哲学者だからというわけではないが、若さは二つの意味がある。一つは老人に対する若さ もう一つは若い世紀の若さ。僕は戸田では若い世紀の息吹きを感じる。それは僕らを乗り越えるカだ。老人達を忘れろ。問題は水の心だ。しっかりやれよ。 (通信第十六号より) |