一組  牧原 志郎


  われわれが草深い都下小平村小川のま新しい予科寮に入ったのは、昭和十一年の晩春。

  周囲は良く手の入った雑木林で、昼間でも鳥の鳴声があふれていた。 

 里見治男君の部屋は、同室であぅた。南寮の二階の東のはし、つまり玄関に近い方で、寮歌「紫紺の闇の原頭に」の作詞者、 依光良馨氏と同室であった。

 私は時々里見君の部屋にお邪魔した。里見君は私より年長であったと思うが、大人びて落着いたものごしであった。白晰の、ちょっと西欧の人を思わせる風貌だが、黒い眼に情熱的なところがあった。

 草木は芽立ち、入校のよろこびを噛みしめ、多数の人々との寮生活に、いくらか馴れた、新緑の薫る、ある宵のこと。君から小田原の小学校の同級生に、堤真佐子のいたことを知った。当時、彼女はりんごのようなほっペで有名な清純派女優の一人であった。

  君は、ふと遠くを見るような目つきで、稍々肉感的な唇を、ちょっとゆがめ、ふしぎな微笑を洩した。そして感情をこめ、 「可愛いかったぞ!」と云った。 里見君は、べつに能弁でも、多弁でもない。おっとりとした態度で、ぽつり、ずばりと話した。 しかし、君の級友、堤真佐子のことは、私ばかりでなく、何人かの人が、君のご自慢ばなしとして聞かされていることを、 私はつい数年前に知った。

 ともあれ、しばらくして、私は再び、寮の里見君の部屋を訪れた。ちょっと異様な空気である。君は興奮気味であった。

  何かしら、小学校時代の思い出をこめて、堤真佐子にはげましの手紙・・・云わばファンレターを書送ったらしい。ところで その手紙が、あまりにも分厚く、郵送料不足となった。それがため、彼女の母親は、自分の手紙を添えて、里見君の労作をば突返したと云うのである。 「郵送料不足は、相手方に大へん失礼なことであると言うことと、もし娘に何か間違いでもあるといけないから、返す」と 云う趣旨の手紙であったらしい。 「何が間違いだ!」君は悲憤の眼をした。「こんなことをする事こそ、失礼じゃないか」、私は、まったく、同感であった。「あいつ!やり手ばゞあと云うんだよ・‥」 君は吐き棄てるように云った。

 里見君は、人の悪口を云うべく、ポンポンとロの立つ人柄ではない。これがせい一杯のおかえしであったろう。だが、「遣 り手婆」の正確な意味は、果して、この場合に当るかどうか、私には、ちょっと心もとない。

 さて、君の、その悲しみは、今、思いかえしても、まさに私の心を痛ましめる。但し、郵送料不足の分厚い手紙とは。私は 君に心から同情した。かの母親の不逞の態度を憎んだ。しかもなお、第三者の立場として、腹の底に一抹のおかしみを感ぜざるを得なかった。

 もはや、三十五年もの昔の思い出ばなしである。

 今にして思えば、その手紙が残っていないことは、まことに惜しい。それは、君の児童の時代と、青春のこころの記録の筈であろうから。

 数年前、村上弥寿夫氏から、こちらから問いかけるでもなく、里見君のことを聞いた。彼は太平洋戦争の晩期に北満で、同地にいた里見君から電話を受けた由である。「これからフィリッピンへ行く」。その声は重かった。訣別の辞であった。

 これより先のクラス会で、倉垣修氏から偶然、やはり里見君の思い出ばなしを聞いた。終戦直後、小田原の文房具店で、しにせであった、君の生家での葬式は、まことに盛大であったと云う。

 「お母さんがね、ぼくらを見て、泣くんだよ」。私は、その時の、倉垣氏の、訴えるような眼と、口ぶりを忘れることがで きない。

 亡友の私事について、又これを、あまりに、あからさまにすることについて、私は長いこと、ためらった。しかし、今度の文集は、うちうちのことだ。私が感じ、憶えている限りの事を、ありのまま書いた。君は、多分、許してくれることだろう。

 過去の思い出は、懐しく、甘く、そして、もの悲しい。しかし、その陶酔を乗越えて、人それぞれの貴重な体験と心の交流 が、これからの人々に活かされ、書き残されることが無かったら・・・この世の歴史の中身は、一体、 どうして形づくられようか。事実の誤りは、又、関係の方々が正して下さるであろうことを期待して、筆をおく。