二組  折下 章

 
 四月二十六日、月曜日だった。篠原君逝去の報に接し、一瞬身体がこわばるのを覚えた。「そんなばかな・・・」という疑念は、現実の前に脆くも打ちのめされてしまったのだが、信じられない、否信じたくない事実が起ってしまったのである。

  つい数日前だったろうか。愚息の小学校卒業記念アルバムが出来てきた際、おやじの小学校卒業アルバムを披露し、その時 「これが篠原君の子供の時の姿だよ」と家内にも見せ、幼な顔の残っている彼の今日と比べたばかりだったのに。

 彼の幼い頃は、どちらかと言えばむしろ腕白坊主だった。彼の通った誠之小学校と云えば、場所柄もあって躾けの過ぎたおとなし型の子供が多かったのだが、その中にあって彼は幼いながらも常に自分の意思で行動する個性の強い子供だつた。だから時には教師からにらまれもしたが、彼は平気だった。体は小さかったのに活撥で運動をよくした。後年彼が野球部に席をお き、会社でサッカーを楽しむ素地を持っていたわけだ。

 彼とはよくよく因縁が深い。シべリヤ四年の月日を送ったあと復職したら、はからずも彼が同じ会社にいて(彼は一年おくれて入社したので知らなかった)迎えてくれたではないか。彼もまたシベリヤに廃所の月を眺めて暮したと聞き、お互いに命を得て帰ったことを喜びあったのに、いま彼を野辺送りすることになろうとは。

 その後もそうであったが、幼い頃のきかん気を発揮して、彼の地では相当名を売ったとも聞く。彼のことだからと肯けるものがある。例のまき舌で語学はもともと得意とするところ、速成のロシヤ語を縦横に操って彼の地の人々を煙に巻いていた様子が偲ばれる。

 シベリヤは寒かった。いや寒いなんてものではなかった。温帯育ちのわれわれにとって、それは誠に無慈悲なまでに冷酷な気候だった。Cマイナス五十度と言っても解ってもらえないだろう。万象悉く静まり、空気中の水分は氷片となって浮遊している。その中で巨木が鈍い響を立てて裂ける。そういうところで彼は何年か過ごしたのだ。そして日本人、特にわれわれには過重の労働ノルマを背負って。土地の人々は言っていた。「頭を寒さから守れ、心臓を大事にしろ、お前達はこの低温のおそろしさを知らないから見ていられない」と。短時間とはいえ、ともすれば冷気に体の要部を平気で曝すわれわれをきびしく戒めていた。彼の肉体も或はその低温に相当傷められていたのではなかろうか。想い出は尽きないのだが、まだまだこれからという年令で早くも彼のような有為の同僚を失ったことが残念でならない。                                           
                                       (通信第五号より)