◎ 十二月クラブも三十周年の記念行事をするようになった。この三十年は私にとり、誠に早く過ぎ去ったが、三十年といえ ば、人生にとって本当は長い期間である。だから誰でも多くの貴重な経験をされているはずである。私もささやかながら人並みに良いこと悲しいことを含めて、多少の経験はしてきた。そして頭も薄くなってきたためか、人並みにそれらの経験に基きながら、人に勧告や激励をしたり、或いは去る人、来る人に、代表して歓送迎の言葉を述べさせられたりもする。(年をとった証拠だと痛感しています。)
◎ 全然違った場所で話をするのなら、同じことを話しても差支えないが、同席する人が同じだと常に同じことを話すわけにもいかない。そこで多少は考える。最近感銘を受けたこと、本で読んだこと等思い出しながら、あれこれ考えて、慚愧にたえないような話をする。ところが後日回想してみると、表現や喩えは異っていても、話の本質・核心は大して変っていない。こ
の点、人世哲学、人生観といったものが、一寸やそっとでは変らない、変るべき性格のものではないことによるのかもしれないが、或いは私が少しも進歩していないからなのかもしれない。何れにしろ、私は次の機会に再び苦慮して年の功の償いをすることになる。
◎ このようなことを考える時、ふっと想い起すのは、卒業する時の先生方の言葉である。小学校の担任の先生も偉かったので、その言葉は今でも忘れないが、大学の先生方の言葉も強く印象付けられているものがある。
といっても、不真面目な学生であった私は、卒業式の日、国立にいても式典には出ていない。従って高瀬学長始め先生方が何を話されたか知らない。私の記憶に残る先生方の言葉とは、卒業記念アルバムに載せられた先生方の言葉である。(最終講議での二、三の先生方の話は覚えているが)
◎ 記念アルバムには、元学長を始め諸先生方の言葉があるが、強く印象付けられているものの一つに、私のゼミナールの先生であった高瀬荘太郎学長のものがある。それは、
「大事を為すものは、易きを避け、自ら進んで難きに就け」
という意味の ものであった。いろいろ世話になった先生の言葉なので、特に記憶に残ったのであろうが、最近の若い人々の少しでも楽をしよう、労苦を避けようという強い風潮を見るにつけ、想起せざるを得ない。こんなことを言っても、ナンセンスの一言で片附けられそうだ。とに角、大事をなしていない私には、言う資格はないが、チャレンジの心意気、喜びを知ろうとしない若者は
若者といえないのではなかろうか。
◎ 次に時々想い出すのは、予科時代ドイツ語を教えていただいた吹田順助教授の次の言葉である。
「一日のうちに必ず一つの峠を越えるべし。一年のうちにも、一生のうちにも」
学部時代バレーボール許りやっていて、吹田先生とは疎遠にしていた私が、何故この言葉を特に覚えているのか。私の記憶に間違いなければ、この言葉をアルバム編集委員に寄せられた先生直筆の葉書を水田洋君(?)からか、食堂で拝見させても
らつたためかも知れない。或いは小さな毎日の努力研鑚をつまなければ、決して大目的は達成できないという教訓を、文学的に美しく表現されている点に感銘を受けたためなのかも知れない。
私はある機会に、この言葉を勤務先の社内報に引用させていただいたことを報告しておく。
◎ 三番目に印象に残っているのは、商法の米谷隆三教授の「忠義奉公、義理人情」という送別の言葉である。
申訳ないが卒直に言って、当時の私はこの言葉に戸惑った。自由の砦を謳歌していた一橋の法律の教授か、なんと封建臭ぷんぷんたる前近代的なことを言うものかと、意外に思い、それでこの言葉が頭の一隅に留め置かれることになったのだろう。
その後二十数年間、特に思い出すこともなかったが、この数年作業現場の労務人間関係管理に気をつかうようになって、人間の泥くささ、義理人情の主要さを体験するに及び、米谷先生の言葉が何とはなしに、甦ってきた。
そして義理人情は勿論のこと、近時活字に見ることのできなくなった忠義奉公も、字義通り解釈すれば、現在でも適用できる立派な言葉ではないだろうか。まじめに人の道を行い、社会公共に奉仕する。他人に対し、行うべき道を守り、人情を尊重する。やはり米谷先生は、深い哲学があって、忠義奉公、義理人情と言ったのであろうと反省し、申訳ないと痛感している。
この点ゼミナリステンに機会があったら聞いてみようと米谷ゼミをみたら、韮沢、杉江、渡辺(公)、壷井等々俊英、畏友が並んでいる。何時か聞いてみよう。
◎ 扨て吹田、米谷両先生の言葉に誤りがあっては大変と、学生時代唯一の記念となっている卒業アルバムとチェックした。 そして他のページを見ていたら、我がバレーボール部(当時は排球部という)の部長であった山口茂先生の言葉が眼に入って
きた。
「達者で暮して下さい。銘々自分を労はって。」
学生を可愛がり、地味だがよく面倒をみて下さった温情溢るゝ先生の 人柄がしのばれる言葉である。写真をみながら当時を回想し、一寸センチになった次第である。
会うは別れの初めとか、何時かは別れなければならない。その時の心情は近しければ近しい程、このような表現になるのではなかろうか。
家庭をみても、娘どもは何れは嫁ぎ、家を去って行く。また友人についても、社会的に活躍されていればいる程、夫々自分を労って、長く深く社会のために頑張って下さいと願わないわけにはいかない。私も身分相応に働いていきましょう。
十二月クラブの畏友諸兄よ、
「お互いに達者で暮そうではありませんか。銘々自分を労って。」
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