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七組 斉藤 一夫
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歴史や人生をドラマにたとえることがよく行われる。こういう表現をすると歴史上の出来事や人生経験がいきいきとしてわれわれに迫るように感ぜられるのである。理屈をいえば、それらの中の最も大事な刺戟的な部分がわれわれの注意力の行きわたる小さな時間空間の中に集約的に再構成されるという期待がそうさせるのであろう。 われわれが学窓を巣立った一九四一年十二月には、二十世紀最大の世界史のドラマはすでに幕を開けていた。ヒトラー、ムッソリーニ、チャーチル、スターリン、ルーズベルト、それに東条、蒋といったなつかしい名優たちが出そろい、ドラマは破局に向ってしだいに盛り上りつつあった。もちろんおもな舞台はヨーロッパであった。われわれは観客席から見物しつつあったつもりが、やがてこの巨大なドラマの中に巻きこまれ、生死の間をさまようことになるのである。 あれから三十年、一九七〇年代に至って世界史は再び筋書きのわからないドラマを展開しようとしている。このたびのおもな舞台はヨーロッパではなくアジアになりそうである。この前のときと違って主役を演ずる傑出した名優が誰なのかはっきりしない。時代が変って、名優のない集団演技が中心なのかも知れない。 周知のように、北欧学派の巨匠グンナー・ミュルダールは数年前に「アジアのドラマ」という三分冊合計二千数百ページに達する大著を発表して評判になった。この本は、インド亜大陸を主とし、それに東南アジア(ビルマからフィリッピンまで)を加えた地域における第二次大戦直後から一九六〇年代に至るまでの政治、経済を論じたもので、アジアに関する彼の研究の成果を集大成した名著である。しかし彼のカバーした地域と時期からいって、これを「アジアのドラマ」と銘打つのはやや誇大にすぎるように思われる。というのは、「アジアのドラマ」は時期的にはまさにこれから一九七〇年代に始まろうとしているのであり、このドラマの主役は、俳優ははっきりしないが、国としては中国、インド、それに日本の三国でなければならないからである。もちろんアメリカとソ連が有力な脇役として参加することになる。 小生、アジアの経済問題の研究を志してからすでに十数年になる。この間、アジアの全域をこの目で確かめてみたいという念願を持ったが、いまだにこの念願の達成からほど遠い。それでも旧日本占領地の中では中国、南北鮮、北ベトナム、ラオスを除いては点と線ながら一応見て回った。またインド、パキスタン、オーストラリアのようなかっての「大東亜共栄圏」の周辺諸国、また東アフリカ、南アフリカのような遠い国々もかいまみる機会にめぐまれた。要するに世界の田舎の研究と田舎巡りの旅行をしながらこの十数年を過してきたのである。 一九七一年に至って中国の国連加入、沖縄やニクソン・ショックをめぐる新しい日米関係、インド・パキスタン紛争などアジアを中心に世界情勢は急展開を見せ始めた。壮大な「アジアのドラマ」の幕開きである。このドラマにすっかり魅せられて、生あるかぎり「観劇」はやめられそうにない。政治学や外交問題を専攻していないので、俳優たちの演技をあげつらう能力はないが、演技のバックグラウンドになる舞台装置をできるだけ正確にとらえる努力を続けたいと考えている。またたんなる「観劇」に終ることなく、舞台装置を正確にとらえることを通じて、ドラマの進行に若干の助言でもできればと考えている。 これからの長い研究途上(本人は長いつもりでいる)、同窓諸兄の知識、経験をお借りしたり、便宜のはからいを無遠慮にお願いしたりする機会が多いかと考えるが、何分ともよろしくお願いするしだいである。 |