四組  一森  明

 芥川竜之介の「長編小説を書く事は、文学者としての堕落だ。」との一文を予科の図書館で読んだ記憶がある。彼の"侏儒の言葉"は寸鉄真理をさす鋭さがあるが、それを通読しても彼の体系は容易には理解できない。できたと思ってもそれは私の主観的理解に過ぎないであろう。芥川は読む人の気儘な理解に任せているかの如くである。

 卒業三十周年記念文集の要請があり、何度か筆を取りかけたが、自らの弱さ、醜さを暴露するに終りはしないかとの心配が先に立ち気が進まなかった。が、ままよ読む人の気ままに任せよう、凡愚の自分を凡愚のままに書けたらよいと思う。只、拙文にして、自己の主観を正しく諸兄に御伝え出来るか否かが気懸りである。(それにしても長文を書く才能は持ち合せていないので"侏儒の言葉"形式で学生時代を振り返って見た。)

 (a) 入寮式の日、式後直ちに、全寮生大会に切替えられ、白票事件のあふりを受けて学生自治会の要求(杉村教授の復帰)が入れられなければ、総退学するという文書に署名せよといわれた。「切角苦労して入学した許りなのに明確な理由を納得出来ない内は署名できない。赤穂浪士でさえ最後の署名を取るには念には念を入れているではないか」と、只一人私が反対を主張した。この為か、私は時の学生主流派から敬遠された様だ。五十才を過ぎた今でもこの一匹狼的反逆精神は、あまり変り映えがしてない様だ。

 (b) 予科一年の記念祭準備の為に徹夜で蛸のアーチをつくりあげた責任者の岸博太郎君も今はいない。記念祭の後、先輩の寄贈による生ビールがやけに苦かったが、何かを仕遂げた満足感から、コップに三杯程飲んだら天地がクルクル舞出し、目が覚めたら寮のふとんに寝かされていた。(こんなうぶな時もあったのかな!)

 (c) 予科入学当初、私の中学は帽子の顎紐なし、詰襟のカラーなし、短靴であったので、教練の時間に叱られるやら、笑われるやら。

 (d) 名古屋の山家の猿が、いきなり小平の花の堤で都会的センスに富み、又、自我に目覚めつつあるかの如き半成人の中に放り込まれ何から手をつけてよいやら、先づは図書館にこもり、倉田百三“愛と認識の出発”、阿部次郎“三太郎の日記”、芥川竜之介全集、ドストエフスキー等と乱読。

 (e) 修身教科書的“善”を批判し、悪をたたえ実行してみる。
 
 (f) 何をやっても徹底できず、自己に怠堕であるとの自己嫌悪に陥る。

 (g) 社会は、日支事変が深刻化するにつれ、益々自己封鎖的になる。神田中を歩いても、河上肇訳の「資本論」の完訳はなかった。

 (h) 水泳部の一員として、タイムは悪かったが、自分を打込めるものとして、ベストをつくした。これも一つの自己逃避か?

 (i) 外見いつもニヒルな大迫千尋君と二人で同じ素人下宿に。屡々、夜半まで、彼の文学的哲学論に、自らの幼稚さをいやと言う程知らされた。その畏友も大東亜戦争に散った。

 (j) 酒を飲んでは人生を語り、自己嫌悪に陥っては酒を飲み、さめては酒に逃避した弱さを苦々しく思った。

 (k)  昭和十六年最後の夏休みと遊び呆けて上京。学校へ出てみると、一部の噂で、ひょっとするととささやかれた卒業の三ケ月繰上げ、即時兵役召集が現実に。

 (l) このまま死ぬ可能性が五〇%と思うと、俄に自分の卒論が書きたくなったが、五年有余の不勉強のたたりで、何もかも不満足な喰いたりない卒論となり、十二月卒業式前、提出出来ず、先生の了解を得て、昭和十七年二月入営の前夜迄、清書を続け、製本を間宮健一郎君に託し、営門を潜った。

 以上、学生時代に点滅する想い出を順序もなく書き流したが、読み返してみて、自己中心的な余りにも自己中心的にすぎ、内心忸怩たるものがあるが、敢えて公表して、諸賢の御叱声を乞うものである。妄言多謝。