七組 磯部  誠
 
  「門松やおもへば一夜三十年」という芭蕉の句がある。小宮豊隆の解釈によれば、芭蕉が新年に当って、自分は既に三十余才になっているが、これぞと言ってりっぱな仕事をしていない、三十余年の生活は一夜の夢のように無意味だったのではないか、これからはもっと頑張らなくっちゃ、という反省と決意を表現したものだという。記念文集の原稿に手がつかぬまま年を越し、さて何を書こうかと、筆をとって思い出したのがこの句である。芭蕉の言わんとしたことは、必ずしもはっきり分からないが、「一夜三十年」とは私の今の心境に近いものだ。

 三十年前、新しい首途に希望と期待に胸ふくらまして迎えた正月に、定年を過ぎて小さな会社に勤めていたおやじが、其の頃の景気のいい戦果のニュースもあって、上機嫌で、財閥会社に就職した倅の前途を祝福してくれたのを、ついこの間のことのように思い出される。この三十年間が無意味なものだったとは考えたくないが、外観的には勿論、実質的にもあまり上等でなかったことを認めざるを得ない。卒業後職を変えること八回、下関の坂本君に「会う毎に勤め先が変っているね」と呆れられた程だ。いろんな職種、業種を経験したと負け惜しみを言ってはいるが、決して自慢になる話ではない。其の間、同期生や先輩にいろいろな意味でお世話になった。紆余曲折の道程だったが、兎も角も落伍せずにここまでやって来られたのも、諸兄のお蔭だと感謝している。

  そこで三十年の回顧と今後の展望を、十二月クラブとの関連において思いつくままに起してみよう。卒業十五周年大会の案内を受取った際、私は大いに迷った。というのは、その頃私が最も沈滞していた時期で、同期の友人達に会うことに気怯れを感じたからだ。その二年ばかり前、四度目の勤め先を離れて無資本で輸出商売自営を始め何やら軌道に乗せた矢先、扱い品の値下がりでおきまりのマーケットクレームを喰らい、損害を最小限度にくい止めたものの、自信喪失して廃業、仕方なく小さな外人商社に安月給で就職したばかりの失意の時であった。しかし、一方において久し振りに皆に会いたい気持もあって、勇気を鼓して参加することにした。野田君の経営する伊東の旅館に向けて、熊倉君の会社のバスに乗組んだ。戦後十年を経過し日本経済も落着きを取戻し本格的な高度成長に入る神武景気といわれる時期だったことを反映してか、働き盛りの年令の友達は立派な肩書をもって、見るからに自信満々意気軒昂という感じだった。それにひきかえ私は混乱と低迷から脱却できず、よれよれの服でおどおどしていた。その劣等感と孤独感を決定的にしたのは、帰途のバスでのゴルフ談議であった。ボギーだのパーだのO・Bだのスライスだのと、私にはさっぱり判らない話を聞きながら、一層滅入ってゆく自分をどうしようもなかった。その時同期生コンプレックスが私の心に深くくい込んだのである。

 しかし卒業後二十年の頃から同期生の集りには殆んど欠かさず出席するようになった。私をそうさせたものの一つは、中村君、韮沢君達幹事諸兄の暖い配慮であり、もう一つはその有難い配慮に動機づけられて同期生コンプレックスを何とか克服しようという私自身のいじらしい努力であった。十二月クラブの創設者である幹事諸兄の組織づくりの活動ぶりには、ほとほと感じ入ったものである。その活動を私は会報に「献身的にして趣味的な」と書いて、恒成君に「趣味的とはひどいことを」とたしなめられたが、私としては、彼等が多忙な時間を割いて手弁当で幹事活動に打込んでおり、しかもそれを苦労とせずむしろ楽しんでいるのに注目し、そのサービス精神と遊びの精神に敬意を表したつもりであった。私はサービスを受けるだけで、何か役に立ちたいと思いながら、無力と不器用と怠慢の故に未だに何一つ為すことないのを申訳なく思っている。遊びの精神といえば、二木君のお世話で徳島で阿波踊りをして帰ってから、その話をすると「好きだなあ」とか「馬鹿みたい」と呆れ顔に言われたものだが、時に「踊る阿呆」に徹することの楽しさを学んだのも諸兄のおかげだ。

 同期生コンプレックスはそのようにして、比較的早期に解消したのだが、ゴルフアレルギーはなかなかなおらなかった。伊東行直後は、道でゴルフバッグをしょっている人に会ったり、駅でスウィングのフォームをしているのを見ると、思わず身震いするほど重症であった。

 しかし七年ばかり前に一橋の先輩にクラブのハーフセットを貰ったので、この三、四年は運動不足を補う手段としてたまに練習場に行っており最近では社内のコンペにつきあってコースにも出ることがあるが、われながらみっともないプレーぶりである。運動神経と歳のせいであることは勿論だが、アレルギーもまだ多少のこっているようだ。


 先日の総会で、和田君から定年問題に関する緊急動議が出た。われわれが定年に到達しつつあることを考慮に入れて、クラブの運営をすべきだというような趣旨で、私も全く同感である。しかし、定年問題といえば、私にとって何よりも先ず如何にして生活の資を得るかということが、第一の関心事であって、余暇を如何にして過ごすかという問題には、未だ考え及ばないことに気がついて、あらためて愕然としたのである。

 前述のように職を転々として定年後、老後の準備する余裕もないままに、定年(六十才)まであと二年余になってしまった。 先に定年を迎えた松井利郎君に「六十になってからでは、どこも相手にしてくれないぞ」と言われたこともあり、何とかしなくてはならないと思いながらも、為すことなく今日に至っている。

 労働省が昭和三十九年から四十四年までに定年に到達した者について調査した処によると、定年到達者のうち約七五%が被雇用者として就職しており、一二%が自営業等に従事し、無職者は一三%である。無職者のうち八割が就職を希望しており、その就業希望者及び現在就業者の約八割が「働かないと生活に困るから」としている。これからみても、我が国の社会福祉度の貧弱さがわかり、定年問題の深刻さが示されている。また同調査によれば、定年後も被雇用者としている者のうち、約三割が元の会社に継続雇用されており、残りの約七割が勤務先を変っている。出身企業より小企模の企業へ移る者が多く、勤務先を変った者の約八割が五百人未満の中小企業に勤務している。邸永漢は「末は博士か大臣か」に代わる現代風のスローガンを書き入れてくれというアンケートに、「末は定年退職か、子会社の社長か」と書いたそうだが、その八割に子会社の社長も含まれているのだろう。邸永漢はまた「サラリーマンはも早エリートではない」と言っているが、私にとっては、子会社の社長はエリートに見えるのである。

  それは兎も角、中小企業といえば、やはり和田君が、十二月クラブに中小企業研究会を設けようという提案を、前にしたことを覚えている。それを既に始めているならば、私も参加させていただきたい。まだだったら、何等かの形で始めたいものだ。

  私はひょんなことから、二年前、通産省の「中小企業診断士」という資格をとった関係で、経営コンサルタント仲間とつきあっている。顧問屋、講演屋、訓練屋、公共診断専門屋等いろいろなタイプがあり、グループで活動している者もあり一匹狼でやっている者もある。ちょっとお粗末だと思われる者も結構それで飯を喰っているので感心している。彼等の話を聞いても概して言えば、中小企業には激変する環境に適応する知恵が不足しているようだ。私自身が勤めて来た中小企業内での経験に徹しても、そこに乏しいものは資金よりもむしろ創造力、豊かな人材であるように思われる。十二月クラブにその知恵をみがく場を設けることは定年対策として望ましいことだ。多士済々のメンバーだから、ベンチャービジネスの一つや二つ生まれるかも知れない。諸兄のご指導をお願いする次第である。

 私としては、定年後も中小企業に何等かのかかわりあいをもつことによって生活をしてゆかねばならぬだろうが、単に生活のための手段としてばかりでなく、働きがいある仕事をしたいものだと思っている。また十二月クラブ諸兄と今後おつきあいをつづけるに当って、今までのようにお世話になるばかりでなく、無力ながらサービス精神をもって多少でもお役に立ちたいと念願している。更に、遊びの精神も大いに発揮して、小唄や碁や踊りやゴルフ(?)の会にもお仲間入りをさせていただき、例えば和田君の発起で「張漢卿君の訪問を兼ねて米・加に遊ぶ会」、または魚本君の肝入りで「中近東アフリカ視察会」が行なわれることになれば、これにも欣然参加できるような優雅なる老後を送りたいものだ。

  劣等感コンプレックスから始まって、定年恐怖症となり、最後は誇大妄想とまではゆかないが過大夢想、過剰楽観になってしまった。正月酒のせいらしい。乞う、諒せよ。