五組 山崎  坦

 この夏、ロンドンへ出張の帰りにミラノの小林悦生君(イタリヤ三菱社長)の所に立寄りました。再会を喜びあった事ですが、小林夫妻は私をスイスとの国境に近いコモ湖の畔にあるエステ侯の館に案内して呉れました。  
 
  この地は私共が学生時代に見たあの懐しいデュビビエ監督の作品「舞踏会の手帖」のモデルになった所です。あの女主人公が舞踏会の手帖の頁の一枚一枚からその舞踏会のあった昔を回想するロマンティックな映画は今も私共の胸には痛い位懐しく想い出される事で、そのモデルとなった場所、美しい青い湖それから階段の両側に清水を流す溝がありその外側には先のとがった杉木立が上へ上へと整然と植えられて、何とも見事な庭で御座いました。あの映画のシーンが甦えって参り誠に感激した事で御座います。
 
  予科からの大学生活六年、その後三十年、計三十六年来の旧友と過したイタリーの日々は誠に愉快なもので御座いました。従って帰って来ましてから現像した悦生君と写した写真の数々には肩を組んでとった画面などもあり、大学生の娘が之を見てまるで学生時代の様に写って居ると云って笑ったもので御座います。古いアルバムを繰って見ますと、一枚一枚の写真からあの「舞踏会の手帖」の様に当時の事が思い出されて懐しい事で御座います。
 
  考えて見ると二・二六事件から大東亜戦争開戦迄が私共の学生時代で学園の外は大変な時代だったのですが、学園の中は温室だった訳で御座います。校舎の中庭で芝生にねころんで写して居る写真や、漫漕でボートにねころんだり肩を組んで居る写真、クラスチャン、記念祭等々の写真、何れも愛すべき少年達が平和な柔和な顔をして居ります。
 
  それが十六年の十二月に学窓を出てからは別々の道を歩き始めた訳で御座いますが、運命はその糸を交叉させたり、たち切ったりした事でありました。
 
  多くの友達は戦場へとかり出された訳でありますが私が中支に居った時、悦生君も又故小池真登君も中支を通ってビルマへ行きました。真登君とは上海で会いましたが、悦生君の後姿を南京で見かけたのだと話した事で御座いました。
 
  今度イタリーからシンガポールを経て帰国致しましたのでビルマの空も、又和田君が苦労したシンガポールも通った訳です。シンガポールの空では天谷君が散った訳で、沖縄や南方では松井君や仲山君が戦場の露と消えました。井上君も三宅君も逝って了いました。
 
  最近月面着陸や霊園分譲等の記事を見ますと将来墓地は総て月に持って行ったら良いと思って居ります。月を見るたびに、あゝあそこから親父が見て居ると拝み、祖先が何時でもあそこから見て居るから悪い事は出来ないよと云う事にしたら良いと思って居ります。
 
  私共の学生時代は現代とはちがったもっとゆとりのある美しい時代であった様に思うのですが、現代の方が良い時代になって居るのでしょうか。
 
   エコノミック・アニマルとかエゴの塊の様な話を聞くにつけ人の心の賤しさがたまらなく嫌に思われてなりません。昔は武士道とか紳士道とか士魂商才とか気品の高い清潔な空気が満ちて居りました。現代は魂がどこかへ行って了った時代の様です。
 
  何時の時代でも夢見るユートピアは青い鳥で捉えられないのかもしれませんが、ユートピアとの距離がより遠くなって行くのでは悲しい事です。何とか子供達や孫達がより美しい世界に住める様にしたいものだとの願い切なるものがあります。

 

 

小林悦生君と、at Venezia、祭(レガッタ)の時
小林悦生君と、at Venezia、祭(レガッタ)の時