一組 島田 四郎
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それは碁の先生から本因坊道策の打碁集の写本を借りたことに始まった。 明治時代の専門棋士河合四段の子息で、日本棋院四段の河合先生である。先生は中央大学の学生の頃、大学囲碁リーグ戦に活躍した。卒業してから蛙の子はおたまじゃくしとかで、専門家となった。専門棋士に転向してから、勉強の為道策の打碁集を借りて、克明に写しとったものである。早速ゼロックスでコピーした。内容はむづかしすぎて、未だあまり勉強していない。 道策は古今独歩、名人中の名人といわれている。今、道策が生きていて、当代の大家と打つと仮定してみると、初めの十局ぐらいは、或は道策に歩がわるいかもしれない。それは矢張り享保時代の定石布石などより、最近の囲碁の綜合的な技術が進歩しているためである。しかし、その後局数を重ねるにつれて、道策は最近の手法を消化して打ち進み、多分当代の大家を打ち込むことになるだろうと、某専門家が語ったそうである。日本経済新聞日曜版に、「会心の譜」が連載されている。大阪の某棋士がこの欄に、道策のような碁が打ちたいと述懐しているのを読んだ記憶がある。この写本のコピーをつくった時から、古碁に少し興味を覚え始めた。 それから暫らくして、神保町の古本屋で、古色蒼然とした秋山仙朴の「秘伝首書・新撰碁経大全」三冊を求めた。これが蒐集のはじまりであった。古碁書蒐集に多少の経験を得た今になってみると、これは明治時代の復刻本で、大したものではないことがわかった。 その後、半年ほどして大阪に転勤することになった。子供達の教育の問題もあって、単身赴任を余儀なくされた。所謂「阪チョン」である。身軽な引越荷物の中に、これから再三精読しようと、囲碁の蔵書の中から、十数冊を選んで詰め込んだ。この単身生活に潤いを与えてくれたのは、枕辺に囲碁の本を置くことであった。 その後数ケ月たって秋晴れの昼休みに、心斉橋筋をぶらついて、そごうの前にある古本屋に入った。大阪の古書籍の老舗、 中尾書店心斉橋店であった。書棚の隅に、囲碁の本、二二、〇〇〇円と値段のついた紙をたらした一山があった。興味をひかれて、一冊、二冊と見て行くうちに、大正時代と、昭和初期の碁の本に混ざって、かなりの冊数の江戸時代の和本があった。林元美の「碁経衆妙」など名前を知っているものもあった。又同じ著者の「碁経精妙」、服部困淑の「石立打碁・置碁自在」も埋れていた。古びた和本には、洋綴の本にない味いが感じられた。急にこれらを買って読んでみたくなった。和本と特殊な打碁集だけが欲しくなった。店主に向って、これだけ分けて売ってくれないかと切出してみた。 中尾の主人はやはり典型的な大阪商人だった。 「そらああきまへんで。えゝ本抜かれたら、あと売れまへんがな。こないだも、是非この分だけ別に譲ってくれと頼まれた人があるんで、あんたに売ってしもたら、その人に申訳ありまへんがなあ。纏めて買うてくなはれ」と、こちらの気をひく。 そうなると、こちらも意地を張って、 「必要ない本なんか、いらないね。でも…やっぱり和本の方は是非欲しいなあ。何とかならないかい」と、敵の策戦にみすみすはまるとは思いながら、ついつい本心をあらわしてしまう。兎に角、あとの参考にするんだから、別々に値段をつけてみないかと粘る。 「そうでんなあ、まあ値段をつけるとすれば、「置碁自在」は十冊もの揃いだっさかい、五千円ぐらいでんな。「衆妙」、「精妙」は割に出廻っていますさかい、三千円ぐらいでっしゃろ。この「稗聖会棋譜」上、下は大正もんで、珍しいもんでっさかい、まあ、三千円は欲しいでんな」と、値段をつけだした。 何しろ、こちらは、江戸時代の和本がどんな相場なのか、よく分からない。 「碁の本はまだ安いほうでっせ。将棋のほうは蒐めている人も多いんで、こんなちっさな本でも、一万円からしますせ」と、たたみかけてくる。 「へえ、そんなもんかね。えゝ、こちらの大正、昭和の本の中でも読みたい本があるから、コレとコレを一緒にして、一万七千円じゃあどうかね。あの二万二千円からみれば、まだ売る本は随分残るじゃないか」と、いったようなやりとりのあとで結局、こちらの希望する本数冊を強引に加えて、交渉がまとまった。うまうまとしてやられたわけである。 こゝであとから考えると、一つの失敗があった。残した本の中に、河北耕之助の「囲碁小学」(天保版)と云う黄色の表紙の和本があった。パラパラと頁をめくって目を通すと、内容もさほどよくなさそうだし、変体仮名で書かれた文章の横に、前の所有者が鉛筆で片仮名をふってある。本全体も余り綺麗ではない。そこでこれはいらないよと返してしまった。 暫らくして偶々入手した囲碁文献目録に目を通していると、この本は、江戸後期における囲碁の打ち方の原理的な解説本で此の種のものとしてほ、異色ある著作である・・・と書かれてあった。そうなると又急に欲しくなるのが蒐集家の常であるらしい。又中尾の店へ訪れた。ところが主人は、こちらの足元を見透して、その薄っペらな一冊の和本に馬鹿に高い値段を吹掛けて来た。こちらにしてみると、この前纏めて買ったとき、この一冊を突込まなかったのだから、只でも当然という気持がある。エゲツないのが大阪商人だなあと厭気がさして、そんなら、もういらねえやと売言葉に買言葉で別れてしまった。あの本はそのうち売れてしまったらしい。 釣り落した魚に未練があるように、そう我を張らずに買っておけばよかったと、うらめしく思ったこともある。 さて、その日ばかりは早く帰宅した。単身赴任の経験者はよく御存知と思うが、家に戻って玄関の鍵をあけて、暗い部屋に入る時ほど味気ないことはない。しかし今日は違う。われに囲碁の本がある。着換えも早々にして、包みをひろげて拾い読みを始める。そのうち、服部因淑の「置碁自在」を手にする。この本は文政七年に江戸青黎閣より出版された。文化・文政時代といえば、江戸文化の爛熟期であり、囲碁の世界においても、本因坊丈和、服部困淑、井上幻庵困碩、林欄柯堂元美等天才、名手が相継いで輩出した時代である。 「置碁自在」は二子より九子迄の布石を十冊に纏めたものである。先づ九子(井目)篇より目を通す。下欄に四、五十手位までの布石の碁譜を示し、上欄に重要な着手の評がある。例えば、廿の手慥にして吉。最后に、黒必勝の勢なり。とか書かれてある。その評が極めて簡潔であり、又断定なのが却って好ましい。その内容は布石の手順を示しながら、隅の定石を知らしめ、所々に囲碁の筋、形があらわれていて、自然に身につくようになっているのは心にくいばかりである。後日ゆっくり読むにつれて、これが傑作であるとの感を深くした。つまり、囲碁の技術の進歩は、初代本因坊算砂(著書慶長十二年出版「碁経」)の時代より、碁所四家元の棋士の研鑚の結果、約二百年間を経過した文化・文政の時代において、一応の頂点に達したものと思われる。そのような時代の息吹きがこの本を通じて窺われるのであった。これで開眼したのか、とりつかれたのか、江戸時代の囲碁の和本の蒐集に興味を覚えたのである。 東京本郷の木内書店、小石川の浅倉屋、京都寺町の竹苞書楼、大阪淡路町の中尾本店等へ屡々訪れた。又機会あるごとに古書展に通い、姫路、和歌山の本屋迄歩を伸ばした。これで病膏盲に入ったようである。 何のコレクションでも同じだと思うが、偶々古書展で捜していた本を見付けたり、行きつけの本屋で、これはお持ちですかとまだ手に入れてない本を差出されたときなど、旧知にあったような懐しい印象を受けるものだ。そして帰宅後、文献日録に ある入手した本の題名の下に赤いインキで印をつけるときに、ひそかな楽しみがこの道にあることを悟った。 こんな経験もした。神戸三宮の後藤書店を訪れた時のことである。年輩の店員が帳場で、今着いたばかりと思われる紺の大風呂敷をひろげて、本の整理を始めたところにぶつかった。見ると囲碁の本ばかりではないか。冊数も多い。 「やあ、碁の本ですね。済みませんが、一寸拝見させて下さい」 早速、本に手を出す。この処分された蔵書は仲々見事なものであった。世の中には、同じような好事家がいるものだ。これだけ蒐めるのには、大分時間もかゝったことだろう。おそらく亡くなったあとで、家族が売払ったものだろう。是非手に入れたいと思っていた「本因坊秀栄全集」、瀬越憲作編「御城碁譜全集」が綺麗な秩に入っている。江戸時代の和本としては、既に手に入れた「碁立絹飾」「国技観光」其の他数点ダブッていたが、初めて見る井上困碩の「変筌」、本因坊丈策の「古今衆秤」、安井算実の「佳致精局」、太田雄蔵の「西征手談」(但し欠本)があった。これらはみな垂涎の代物だ。これだけは是非買いたいと話してみた処、案の定、一括でなければ売り難いと言葉を濁している。兎に角整理中なので又お越し願いたいとの事。 二、三日して日曜日を利用して神戸に出向いた。それまで後藤書店でも碁の本を大分買っている。ところがこの店では、ただ絶版という理由だけで、他の店に比べて二、三倍の値段をつけている。今日纏めて買えるにしても、先方は相当高値をつけて来ることも予想して、その方の用意もして出かけた。ところが主人に会ってみると、 「あれはもう売先がきまっているのでお売りするわけには参りません。悪しからず」 と、愛想笑いもせず、にべない返事だった。まるで恋人の親爺から、婚約の申込をぴしゃっと断わられたような感じだった。折角意気込んで飛んで来たのに、この時ばかりは、平素から愛想のない主人の顔が一層憎らしくさえ見えて来た。 このような古書探訪を続けて「阪チョン生活」も一年余り経過した。ところが関西地区の探訪もこれで打切ることゝなった。予想外に早く転勤の辞令が出て、東京に舞戻ることになったからである。 江戸時代の和本二十数点は、ポリエチレンで丁寧に包んで、息子に持たせて東京に帰えした。あとで荷造りをしてみると、東京出張の都度、鼠がものを運ぶように、自宅から持って来た碁の本を合わせると、ダンボール箱五箇になってしまった。独りでこの荷造りをしていると、探訪の日々の記憶がほのかに浮び上って来るのであった。 |