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三組 柴沼 富国
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昭和十六年十二月初めに兵隊検査が終りほっとした数日後、「軍艦マーチ」が鳴り響き、「我、米英に対して戦を宣す」のラジオを聞いたときは、瞬間「これは戦死するな」と、戦慄が全身に流れた。然し数日ハワイ、マレー沖での戦勝が報ぜられなんとかなるかなとも感じた。然しゼミの井藤半弥先生をお訪ねすると、「然し君、米英も大きいし、奴等も頑張るから何とも云えんな」とどうも負ける様な話振り。 就職は大日本麦酒の特約店をしていたのでのん気に受験したら、どうせ家を継ぐ人だろうと駄目になり、やっと身代りで三井信託に入る。陸上競技の静岡の合宿より帰ると痔が痛み出して肛門周囲炎になり手術した。お蔭で兵隊検査は落ちるし、何が幸いするか分らぬものである。然し南方軍属の派遣が信託であったのでシンガポールにゆき、その団長が中山素平先輩であったのも幸運で、帰る船の無いのを幸いに任務完了後は初志を貫い大日本麦酒に現地で入社しクアラルンプールの工場長を終戦迄した。昭南島では秋草電々公社副総裁、石川善次郎先輩にお世話になりその宿舎で偶然逢ったのが今の家内である。 弟が家業をやると云うのでそのつもりでいたら比島で戦死し、昭和二十一年二月十一日紀元節の日に広島に近い大竹軍港に帰国するや、田舎の醤油屋の家業をやらざるを得なくなった。 戦前は地方では、やや名の知られた財産家で預金も多くその為、地方銀行の役員もしたが新円切換えと財産税、農地、平地林解放で元のモクアミになり、工場も老朽化し、番頭三名工場従業員五名も老齢化し、半製品も僅かしかないので若い浦島太郎の心境でゼロより初める外ないと覚悟をきめる。「三〇年間金の苦労をしなかったから、あと三〇年間は金の苦労をしてゆく外あるまい」と、「人生は重荷を負うて遠き道」と云うか今日は「重き借金を荷って遠き道を一歩一歩歩む如し」である。 然し幸いに帰国、結婚後二十五年後(卒業三十周年)醤油業界では全国四千軒中約三〇位、全国生産高の三〇〇分の一くらいになり、「お父さんの槍投の十傑の記録が破られましたので僕が抜きかえしておきました不悪」と云う長男は一橋大三年の陸上競技部生であり、「お父さん白髪がふえて薄くなったみたい」とみつめる長女も東京女子大に入り、「お母さん少し金使いすぎない」と注意する次女は高二で、「ゴルフなんて若い人のやる競技ではない」という次男は中三である。奥さんはこの二男二女にかこまれながら益々肥り、銀婚記念には今年田辺経営の東南アジア旅行に独りで参加して御気嫌よし。 私は四十五才より初めたゴルフがハンデー十三迄になったが今秋腰を痛め、これも年の故かと油絵を始めたが暫くやらぬので絵具が固まり新しく買いかえて石廊崎へ旅して「あひる会」に出展作をつくった。 人生まゝになることと、ならぬことと、幸と不幸と誠に入り乱れて分らぬが兎も角生きてゆく外なし。女の友達より男の友達のよくなる近頃。我々クラスは尚友会と云うが誠に友人の有難さ、友情のよさを痛感する今日である。 一橋で何を学んだかはともかく、よき友、よき先輩、後輩に恵まれたことは確かである。 友よ、三十年を振りかえり今後の人生にご健勝であれ。 |