七組  土田三千雄


◎ 陛下のために生きる

 日本人はあまり居ない南部のアメリカばかりを一月も歩いていれば、まず、たべものから郷愁がはじまる。僕のような古い日本人は、いわば醤油中毒にかかっていて、その禁欠症状がでてくる。すしをつまむ幻想になやみ、さしみをはしでつまみ上げる想像に唾をのみ、行住念々醤油に生き醤油に死なん心持とは相成る。

  しかし、それはもう絶望的なのである。この国にきてしまったからには、朝から晩までまずいコーヒーをすすり、瓦のような牛肉をのみ込んで、最後に甘ったるいアイスクリームかなんかなめさせられて、おしまいに、大変おいしうございましたというようなことを言わされても、それにたえて生きて行かねばならない。

  こうまでして生きてゆくということであるなら、イスラエルへ行って鉄砲ブッ放して死んぢまった方がよっぽどましだと思いつめるのである。しかし、生きるために僕は喰いつづける。がまんしてロへ押し込み、水より淡いコーヒーで胃袋の中まで流し込まねばならぬ。それは食慾というような次元の問題ではない。

 どんなにがまんしても、ここは命をもたせて日本へ帰りつくのでなければ天皇陛下さまに相すまないと思えばこそ、僕は明けても暮れてもナプキンをひざにのせて、皿の上の敵をナイフとフォークでこずきまわしたのである。こうして僕の奥の細道は、三里に灸をすえるよりも、たべることの倫理をわれとわが心にいいきかせることから始まった。もう秋でアメリカでもコーロギが鳴いていた。

       行く秋や、わしゃたべるたび目に涙。  

 たべることの次の難問はきくこととしゃべることである。僕の訪ね歩く先はアメリカは南方ばかり。日本人はめったに居ない小さな町ばかりだから、日本語は、心の中で女房と話をするときだけ―――女房、ここを読み落すなよ――― それに訪ねる先は今度来る前に打ちあわせた人達であるから、飛行場へ着けばお迎えに来て下さってそのまゝ自宅へつれてゆかれる。そして、これがお前の泊る室であるぞと宣告されてしまえば、もう逃げることはできない。さてそうなれば朝はキチンと起きて夜は十二時頃まで、いわばとらわれの身で自由はない。そしてその長いあいだ、おせじにもうまいとはいいかねる言葉で何とか意志の疎通を計らなければならない。

 下手な英語をどうしたらうまくすることができるか。お前は英語で物を考えろという。僕はそこで英語で物を考えようと努める。言葉がなければ物は考えられないようだが、その言葉が物の考え方をきめてしまうという関係に相成っているから、僕の考え方は段々毛唐に近づいてゆくことに相成る。先祖に相すまないと思うけれども、これもまた生きぬいて祖国に帰るための暫くの反逆であるからには、再び天皇陛下さまにお許しを乞わねばならない。  
      

◎ケネー・スミスのこと

 アメリカの中西部にカンサス・シティというかなり大きい市がある。飛行機の中継地点でもある。娘のペンフレンドのそのまた友達がこの近くに住んでいて、数年前に日本へ来て拙宅の客となり一週間ばかり見物させて返したことがある。この両親が是非会いたいから、カンサスの飛行場へ降りてくれというのである。僕はユタのサルトレイクシティからオクラホマへ飛ぶ予定であったので何れにせよカンサスで乗りかえねばならない。飛行場に着いたが誰も迎えにきてはいない。前の晩の電話で万一飛行場で会えなかったらミュルバックホテルに入っていてくれという打ちあわせであったので、兎も角そのホテルへ着いて待つことにした。間もなく電話がきて、カンサスに二つ飛行場があるので、別の飛行場へまちがえて行ってしまった、今す ぐホテルへ行くというのである。まつ程に、少年と母親とがやってきた。少年はもう立派な青年になってアイオワ大学の三年生である。それでも前に東京へ来た当時の面影はある。母親ははじめてだが息子がエライお世話になったと一生懸命お礼を述べてくれる。

 食事のあとのお話の途中、僕はフト思い出してポケットから広告の切りぬきをとり出した。ケネースミスの広告をゴルフ雑誌から切りぬいたものだ。ユタ大学のゴルフコースでフロリダ大学のダインヂャー教授と戦ったときに、ケネースミスの話が出て、その時彼がその切りぬきを僕に渡してくれた。その切りぬきによれば、まぎれもなく、ケネースミスの会社の所在地はカンサス市である。その切りぬきを少年が見て「何だ、この会社はこのホテルから四ブロックのところにある」という。歩いてもゆけるという。

 翌日早速吾々三人はこのケネースミスの客となった。何のヘンテツもない小さい事務所であったが奥の方に、球を打つ場所や、体の寸法を計る場所があって全部測定して記入される。兎も角僕はそれを註文して帰ったのだが御参考までにお値段を御披露しておこう。ウッド三本アイアン六本パター合計十本で三七〇ドル。日本円で十一万円余である。そして三ケ月で日本へ来るようにとり計らうというのである。日本のお値段のざっと三分の一。

 さて、大切なことは斯くして僕はこれからケネースミスでゴルフをやるということである。僕のこれまでの嘆きは、ハゲチョロけた古いクラブでゴルフをやることにあった。ちびてカケているドライバーで球を叩いたとて、まともに飛ぶわけはない。僕がいつまでもハンディが最下位に近いのは、ひとえにこのハゲチョロケにあったことはあまり知る人はいない。

 まもなくそのケネースミスがやってくる。それからは球はまっすぐに三〇〇ヤードもとんでショートホールではまたホール・イン・ワンをやるのではないかと、いまはまたそれが心配のたねだ。        


◎トルコの信号

 この前は東南アジアをまわって来たから、今度は中近東を歩いてみた。

 古く栄えたギリシャやトルコのいまの姿に対する好奇心からである。

 中近東一帯の黄いろく白ちゃけた山々に、しがみつくように生えているまばらなかん木の茂み、そしてあちこちに残されている城壁や古い宮殿の遺蹟が中世までの栄華の跡を語っている。けれども、それは昔の夢であって、現実はきびしい政事経済の後進性と人の心のたいはいであるようである。イスタン・ブールの繁華街は車が織るように走っているが四つ街の信号は無視されて、人も車も勝手に走っている。
 
観光バスの案内人に隣のドイツ人が、あの信号の赤は何の為にあるかと聞いたら、案内人の紳士がいった。「あれは共産主義の印だ、青いのは資本主義ということだ」それでは黄色いのは何だと僕が聞いたら「あれは走って通れということだ」といってのけた。

 このあたりは二つの世界の接点である。このユーモラスな案内人の表現は、僕達旅行者の心をたのしませてくれた。