四組  樽  央也

   「雪の日や あれも人の子 樽ひろい 冠里」

 若い頃は、姓も姓だが、親父は又なんて変な名前をつけてくれたものかと怨んだこともある。
 
  そもそもこの樽と云う姓の曰く因縁古事来歴を申そうならば、代々伝わっている系譜並に由緒書調によると、「元亀三年(一五七二年)壬申、水野弥吉康忠廿才ノ時、味方ケ原ノ戦二出陣シ、武田信玄麾下之士黒沢藤五郎、赤招三左衛門、此ノ両士ヲ斬り、其ノ余、敵十二人ノ首級ヲ討取り、大神君(徳川家康)之御実験二入レ奉り、且大久保甚五郎敵相戦ヒ危キ時、康忠之二馳セ着ケリ、是ノ危キヲ救ヘリ。此ノ旨大神君二聞エシヲ以テ、甚ダ御感ヲ蒙リ、囚テ其ノ首級ヲ得ルノ数ニテ三四郎ト改ム。天正三年(一五七五年)乙亥五月参州長篠ノ御陣之時、康忠酒樽ヲ麾下ニ献上シ、此ノ樽ヲ以テ直チニ織田信長公二贈り給ヒ、且此ノ戦之時、康忠武田勝頼麾下之士松松下金太夫ヲ討取レリ。此ノ旨信長公之聞ニ達シ、公之ヲ称美シ、彼ノ三四郎之働キヲ欣トシテ褒旨ヲ蒙レリ。是ヨリ後、君命二依リ家名ヲ樽ト改称シ来レリ。」
 
  云々とあり、蔵前にある墓にも「本姓水野樽家累世之墓」と刻まれているので、自らは、樽は渾名と心得ている。
 
  昭和三十三年であったか、四年であったか、小生がゴルフを始めて間もなくの頃、或る日曜日に、会社のカードを借りて、荒川の都民ゴルフ場に出かけ、クラブハウス前でバスを降りたところ、丁度五組の大上戸君と顔を合せたので、一緒に廻ろうと云うことになり、仕度もそこそこに、コースに馳けつけ、スタート係に名前を届けると、スタート係の女性がくすくす笑い出した。何がおかしいのかと聞くと、「大酒呑が樽を連れて廻るなんて、こんないゝ事ないわね」と言われ、成程と感心すると共に、二人共大いにくさり、出だしからガタガタになったが、大上戸君に大部「吸上げ」られたこと言をまたない。

  ついでにもう一つ、昭和十八年二月、小生入営先の麻布桧町東部第六部隊より、原隊である近歩三聯隊に転属となり、スマトラへ渡ったが、二組の中島義彦君、六組の細谷君達ホッケー部のよしみで、時々留守宅を慰問してくれた。当時どこの家の前にも防火用水がおかれており、たまたま小生宅の防火用水入れが四斗樽で、それに所有者名「樽」と書いてあったが、「樽とことわらなくても樽は樽に違いない」と大いによろこんだらしく、デン公には、今でも会う度にひやかされる。