五組 新坂 建也
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会場を出たのは午后九時半頃であったであろうか、自動車は漆黒の闇の中に、ライトで浮上った道路を気持よく快調に走っていた。 こんな田舎の道、数年前迄は砂利道であったこの道が、観光ブームの波に乗って、急に立派な二車線の舗装道路になった。一〇年程前にはよくお客様を案内して、この道を通って都井の岬に行ったものであったが、その時、砂ボコリに悩まされた事がうそみたいであった。その後今日迄この土地を訪れる機会に恵まれなかったが、当時泊る所と云えば、電気もなく、ランプがぶら下っていた旅館が一軒ある丈であったのが、今は近代的でデラックスなホテル、その他立派な国民宿舎等観光地として整備されてきた。 都井岬は宮崎市から自動車で約二時間半程、日南海岸を南下した所にある岬で、この岬は地形が、太平洋に突出ておるため南は日本最南端佐多岬、ロケット基地である内之浦、西は日南海岸を一望裡に展望出来る、誠に雄大な景観をもつ所である。都井岬を観光地として、その名声を一層高からしめておるものは、その雄大な景観、美しい燈台の外に、一〇〇頭に上ると云われておる野生馬の棲息地である事である。 この野生馬は今からおよそ二五〇年程昔当時の高鍋藩主秋月公によって、軍馬供給の目的をもって、この地に放牧されたものである。日本の馬はその後色々と改良されてきたのであるが、こゝの馬は他の血がまじる事なく、純粋の日本馬として今日迄残されている所に学術的価値があるとされている。 こゝの野生馬にとって、その間色々な出来事があったのであろうが、地元の人々の手厚い保護によって、厳しい自然環境と戦い続けながら、子孫を残しつゝ、今日迄棲息し続けておるのである。 この夜も自動車が、棲息地の境界線となっておる、馬止めの柵を通り過ぎると、道路に親子連れのグループ五頭が、ライトに照し出された。道路の真中で、自動車の行く手を阻んでおるので、自動車はストップせざるを得ない。人間に飼いならされている馬しか知らない我々にとって野性の馬という事だけに、何とも異様なものに思えて仕方がない。馬の立去るのを待って自動車を走らせると間もなくグランドホテルに着いた。新婚旅行のメッカと云われておる宮崎だけに、このホテルも新婚旅行目当てのホテルとして造られており、九月上旬というのに既に新婚旅行のハシリであろう、数組の新婚さんが宿泊していた。 案内された部屋の窓から、海上に出漁した漁船の漁り火が、あたかもそこに大きな町があるかのような錯覚におちる程、海面一杯に広がっていた。日本の中央から遠く離れた宮崎、そして又その宮崎から、相当な距離にあるこの都井岬にきた理由は、この地の串間市商工会議所の依頼によって「ドル防衛と日本経済」という大変な題で講演する事であった。 宮崎県はご承知の通り第一次産業とその資源を加工するという斜陽化をまぬがれない、木材加工業、食品加工業の地場産業によって成立っておる県であるが、最近は美しい自然を売物にする観光が時代の脚光を浴び、実体以上に宮崎が大きく喧伝されておる。産業的には、戦後日本経済を大きく成長させた原動力である輸出産業とも、或は又日本経済構造を変えた主役である、重機械、化学工業とも無縁である。まして二五〇年の永きに亘り、野性馬をそのまゝの姿で今日迄保存し続けたこの地で円の切上げによって急速に変ろうとしている日本経済の大きな波の直接的な影響は勿論、余波すら見出す事は困難であろう。 それが情報化時代というものであろうか、この隔絶されたような土地でも、日本経済を急変せしめる、課徴金或は円の切上げが、自分自身の切迫した問題として、或は知識として個人の中に累積され、知り度い欲望にかりたてられる。 然しながら、一般の人々が知りうる事は原因と結果丈である。課徴金、円の切上げ、不況、失業、給与の減少である。 このような形でしか理解されておらず、不安だけが先走るのが現状であって、なぜそうなるか、理由については理解されていない。一般の人が最も知り度いのは「円の切上げ」そのものであったり、「円の切上げで、輸入が容易になり、輸出が困難となる」その理由である。これらの事を理解して始めて、自分達の環境に直接的影響のない事が理解され、安堵の胸をなで下ろし自分の問題から離れ、時事的な問題として客観的にみる事が出来るようになるらしい。 このような専門的な内容をもつ事柄を私のような全く素人の域を出ない者が、動員されて、新聞、雑誌のはり付け知識をしゃべりまくらなければならないのが地方の実情である。 今となっては、喧騒、スモッグ、公害の充満した都市からみた地方の生活は、うらやましいものに見えるであろうが、復員後郷里であるという事丈で、二六年間地方に住んでいる私は、地方のもつ人間関係のイヤラシサを嫌という程味ってきた。幾度か脱出を図ってみたが勇気がないばかりに今日迄何とはなしに日を過してしまった。今となってみれば、最早脱出したいと云う気持もなくなりつゝある。郷里をもつ事は、人生に一つの楽しみを加える事であるに違いないが、そこに住む事は又別問題であろう。 それなりに、予科、大学生活をなつかしむ気持は人以上に強いものがある。自分により相応しいと思う道を歩きそこね、その後の人生に或種の悔恨の情を感じておる者にとって、選択以前の道は実体以上に美しいものとして、年を経る毎に強烈な思い出として胸に残る。 六年間の思い出を語る友もいない淋しさ、そして母校の名をロ出す事すら、つゝしまなければならない雰囲気、そのような時、何かの機会におとづれた友人と、何のきがねもなく、思い出話に花を咲かせる事は本当に楽しい。 夜がふけると共に漁り火が増々ふえてきた。夜明けと共にあんなに多かった漁り火が一つ一つと消えてゆき、荒々しい海丈が残されるのであろう。漁り火を一人眺めているうちに、馬場君から催促されていたこの原稿を書こうと思い立った。 明日銀行に帰えるとすぐ今度は旭化成の主力工場のある延岡市から自動車で一時間半程の所にあり、天照大神の伝説の町、皇祖発祥の地と渓谷の美しさで、宮崎県北の観光の拠点となっておる高千穂町、そしてそこから自動車で約一時間半の距離で九州山脈の山の中、まぼろしの魚と云われるヤマメが清流の中を泳いでおる五ヶ瀬町に行く事になっておる。そしてそこでも又「円の切上げ」の話しをする事になっておる。 |