七組  大橋 周次
 
  当時(昭和十四年)商科大学内に教育学生という制度が開かれた。二年以上商業学校などに教歴のある者が卒業後教員になることを誓って入学を許され、授業料も免除されるというやり方であった。入学試験も論文と口頭試問だけだった。しかし後者では列席の十名程の先生からこっぴどく叩かれた。こうして入学を許された教育学生は八名で、相川君がその中にいた。授業がはじまると、今までお山の大将であった自信もぐらつき、教育学生はみな褌を締めなおして講義に出席し、しばしば揃って教室の最前列に坐ったものだ。田中誠次先生の代講をした吉永さんはわれわれよりも若く固くなっていたように見えた。

 相川君ははじめから大人びており、きわめてお人好しだった。君は山中ゼミナールを選んだが、このゼミは仲々きつく、君は相当猛勉強をしていたようだ。兄にとってもまた小生も同様、一橋の三年間は正に人生の黄金時代だった。しかしこの良い期間はまたたく間に過ぎ去り、しかも三ケ月の繰り上げ卒業ということになった。われわれの卒業は、大部分の同窓生にとって卒業即召集という超非常時における卒業であった。

 さて教育学生はすぐに召集されるということはなかった。君はまもなく大連高商へ就職が決まった。府立三商に否応なく指定され赴任した小生は君を羨しく思った。ところで三商では連日教練の練習をやらされ、一橋の学生生活となんとかけはなれた生活だろうと情なく思い、大連に赴任した君をいっそう憧れたものだ。

 終戦そして混乱、大連にいる君はどうしているかと思ったが通信するすべもない。二、三年たった頃突然君から無事帰国の通知を受け、再会できた喜びは今も忘れ得ない。丁度その時小生の勤める学芸大学に経済政策担当の教師が必要だったので君に来て貰うことになり、君との因縁はいよいよ深くなった。しかし君はその頃健康が思わしくなかったようだ。今から思えば十分静養してから就職すべきであったのに、小生の方があせって無理に君を就職させる結果となった。

  学芸大学に勤めはじめてまもなく君の病院生活がはじまった。病院を訪ねるたびに君は講義ノートを整理して再起に備えていた。そんなことはやめて気楽に闘病に専念しろといったがききめはなかった。病室の様子を見ると、君は同室の皆から尊敬を受け、とくに付添いのやさしい女性から心のこもった看護を受けていた。察するにその女性は君の再起に献身し、未来の奥さんを希望していたのではなかろうか。しかし君はついに再起しなかった。享年四十才、惜しみても余りがある。しかし死ぬまでノートを離さず、周囲から敬愛されて逝った君の最期は立派だったと思う。浅草寺における十二月クラブの亡き同窓生追悼式当日君のお姉さんに会い、しみじみ君のありし日の思い出を話し合った。君の霊はそれをきっと感じとったと思う。
(昭和四十七年十月二十六日)