昭和三十大年十二月二日以降の想い出すことどもの数々
(十二月クラブ公式会合記録等抄)
はじめに
広くもない私の書斉の書棚や机のひき出しには、十二月クラブ関係の資料や写真がドッカリと大きな部分を占めている。
昭和36年12月2日、熱海八丁園ホテルで開催された卒業20周年記念総会の日−この総会の席上で、わが「十二月クラブ」という名称が、名古屋大学水田洋教授の提案で決定したのであるが−この日以来の十二月クラブの月例会、東西懇談会、一橋祭参加の家族親睦会は勿論、幹事会や財務委員会にいたるまで、その出席者名、会議の内容等が、年度別に整理されてある。
十二月クラブ会報及び如水会報掲載の関係記事の切り抜きは完全に編集されてあり、家族旅行のパンフレット等も殆んどが残されている。出席者芳名簿も、37年2月の例会から、片柳第二代幹事長に引き継ぐまでの期間のものはすべて揃っている。
十二月クラブ関係の写真は、これまた数え切れない程の数である。これ等は、私のかけがえのない財産である。
「近所に火事が起きたら、家財には保険がかけてあるから、無理してまで持ち出さなくてよろしい。でも、時間があったら 学用品とこのファイルだけは持って逃げなさい」と家内や子供達に言いきかせてある。
卒業三〇周年の記念行事として、片柳前幹事長他の人達の発案で文集を編纂するということが決まり、小生に、幹事長として就任していた発会から五年間にあったことがらを書けというお達しがあった。
夕食後、机に向ってある年の、ある資料をめくる。例えば、昭和40年度東西懇談会蓼科行きの記事にぶつかる。
「とき 昭和40年8月7・8両日、ところ 長野県蓼科高原白樺湖、最高の好天、快適な涼しさ、おいしい空気、日のさめ るような緑、楽しさいっぱいの宴げ、ゆっくりとすわれた往復の列車etc、etc すべてがすばらしい家族ぐるみの旅だった。七三才になられる磯部君のご母堂から二才の中村聡一郎君まで三九家族、一〇二名が参加・・・・・・」
こうなると、「オーイ、聡一郎!チョットおいで、まり子もおいで!」
ということになる。そして、その頃の写真が持ち出される。
「聡一郎は、最年少参加賞で熊のぬいぐるみをいただいて、随分長い間持っていましたね。」という話が家内から出る。
「おや、まり子がまだこんなに小さかった。」と驚く。続いて富士五湖の話が出る。一橋祭参加の時の話が始まる。「誰さんのお嬢さんは、もう大学生かしら」「誰さんのお母さんはお元気かしら」というようなことになる。そして卒業アルバムや卒業二五周年記念アルバムが持ち出されることになる。なかなか原稿書きの作業に入れない。
あれから、早や十年になる。この十年間の十二月クラブの主要行事は別表にまとめられるが、その内のいくつかにスポットをあて、この記念文集を編さんするに当って「是非とも残して置きたい記事」を拾い出した。
いささか長文にわたるが、おゆるしをいただきたい。
卒業二十周年記念総会
如水会報の昭和36年10月早々「昭和十六年後期学部卒業生諸兄に告ぐ」と題する韮沢君起草の檄文が掲載された。
卒業二十周年記念大会召集の通知であるが、韮沢君特有の躍動的で、きめの細かい文章が実に面白い。どうしても参加しないではいられないような気持になってしまう。今後のこの同期会の運命が象徴されているような一文である。
早いものだ。大東亜戦争の始まった昭和16年12月に、われわれが国立を巣立ってから、すでに二十年の歳月が流れようとしている。その間、われわれは直接、間接に戦争による傷手を受けた。同期の桜の四分の一は護国の華と散った。生き残った者も、戦後の食糧難、インフレ、財閥解体などの激流に追われ、生きていくことがいかにきびしいものかを体験させられた。大部分の者にとっては、ようやくこのごろになってはじめてホッとした気持になったというのが実情である。
しかし、苦難の時代に生きたことがわれわれに幸いした面もなくはない。その一つは、きびしい時代の故に、われわれ同期生の団結は固くなったことである。卒業二十周年を機に、日ごろはなかなか会えないでいる地方在住者の多数参加を得て全国的な規模において同期生大会を盛大に開き、一夕の歓を尽くしてこの団結をさらに一段と強化し、今後お互いの飛躍に備えようということになり、九月五日午後六時、各クラス代表十九名が如水会館に集まって発起人会を開いた。たまたま社用で上京中の二組瀬戸山君に、関西代表として出席をお願いした処、忙しい中を無理してくれたのは実に嬉しかった。
発起人会は、二十周年大会をあらゆる面で充実したものにしたいという出席者全員の熱意から、延三一時間半にわたり、ついに如水会館から追い出されそうになったが、各クラスの意向を盛り込んで審議した結果、次のことを決定した。
一、日時 昭和36年12月2日(土)、3日(日)の両日
ニ、場所 熱海
三、会費 三千五百円
詳細は決定次第、追ってご通知いたしますが、各人今からメモに特筆大書し、あらゆる会合に優先してご出席ください。
また大会準備委員を次のように定めた。
△総務委員長 中村達夫
△会名選定・会則起草・会組織化委員会、委員長 韮沢嘉雄、委員 麦倉泰司、光永八太郎、坂田建樹、間宮健一郎、和田一雄、小島 魁、渡辺公徳
△名簿作成・通信連絡・PR委員会、委員長 鈴木栄喜、委員 田辺一男、光永八太郎、下田友吉、二見正之、高橋勝、 藤田信正、松井利郎
△旅館選定・給養委員会、委員長 望月継治、委員 坂田建樹、中村達夫、松井利郎
△企画・進行・寄付・輸送委員会 委員長 大野晴里、委員 光永八太郎、山崎 昶、戸辺勝利、和田一雄、馬場富一郎、熊倉 実
△関西支部委員長 瀬戸山英太郎
もっとも、これは当日の出席者の中からきめたにすぎず、委員に定員なき故、ひと肌ぬごうという熱のある方は早速 ご連絡ください。どの委員会も大歓迎。アイデアだけでも結構です。
この日までに、熊倉実君から大会当日の東京−熱海間往復バス、ニューヨークにいる池田歳正君から、ジョニーウォーカー二本、坂田建樹君、馬場富一郎君からそれぞれ一万円づつの寄付あり、また篠原英夫君からも相当の寄付があることが明らかにされたが、大会を一生の思い出になるような印象的なものにするには、どうしても先立つものが十分に必要なことは今さらいうまでもないところである。長年苦楽を共にした女房におみやげになるような記念品を作ったら・・・という殊勝な案その他興味津々たるアイデアが出ているが、すべて諸兄のご協力にまつところ大。物心両面におけるご支援を願います。
さて、こうして召集された卒業二十周年記念大会の様子はどうだったろうか?この日のことを忘れられない諸兄も多いことゝ思うので、間宮健一郎君による「卒業二十周年記念同期生大会記」を抄録する。
卒業二十周年記念同期生大会記(抄) 間宮 健一郎
この春頃から数人の人が中心となり、私達が一橋を巣立って今年十二月で満二十年になるから、是非同期生が一堂に会える機会を持ちたいという話題が出ていたが、秋の実りと共にこれが具体化した。
おりおり如水会館に集まって相談しているうちに、全国各地から集まるためには熱海付近がよいとか、これを機会に名簿を整備しようとか、会名や会則を決めてはどうかというふうに段々に話がはっきりしてきた。各クラスの幹事達とも連絡がついた。 (中略)
当日、熊倉君提供の貸切観光バス利用の組は11時50分に東京駅丸の内北口に集合した。やがてバスは神田精義軒特製のサンドウィッチやら菓子箱が満載された。
快晴に恵まれて、二十年振りの感慨を胸にしたわれわれのバスは都心から静かにすべり出た。全国各地からさっそうと熱海に直接に乗り込んだ人達の思いも同じであったろう。予定の時刻にやゝ遅れたが、パスの組が八丁園についたのは黄昏近い四時半頃。
沢山のボーイ、ウエイトレスの出迎える豪華な鉄筋十階建ホテルの玄関を入って先ず驚いたのは先着している旧友の顔、顔である。比較的見馴れている受付委員は兎も角として、二十年振りに見る殊の懐しさである。髪の白くなったこと、又薄くなったこと。いやそのくせ一言、二言と辞を交わせば、その実ちっとも変っていないぞと感じて嬉しさが益々こみあげてくる。早速委員に尋ねると、出席申込者は百名に及んでいる由。既に宿の丹前にくつろいだ人達の胸には「○組何某」と氏名カードがつけられてある。全くこのカードがなかったら、スレちがってもわからない位変容した人もいるのだから、これも準備委員の行き届いた処置だと感謝した。
一風呂浴びた五時過ぎに、中広間で総会が開かれる旨のアナウンスがスピーカーにより告げられた。
中村君の司会により、先ず韮沢君が立って今回の記念大会の開催にいたるまでの経過報告並びに香港、濠洲訪問の際に三好君、三宅君から贈られた金品や、在ニューヨークの池田君からの寄贈品等海外における会員のこの大会に対する関心度についての報告が行なわれた。次いで議長に間宮、副議長に吉川君を選出して総会に入った。吉川君は大阪からの参加で壇上での二十数年ぶりの再会、まことに懐旧の情一しおという次第。
議長総会の成立を宜し、先ず物故級友の冥福を祈って一同黙祷を行なった後議事に入り、次の議案を審議、議決した。
第一号議案 会名決定の件
韮沢君から会名選定についてのこれまでの経緯について説明があった後、議長から幾つかの会名案の中からどれを採用するかについて議長に諮ったところ、水田君が「一橋の卒業生にして十二月に学窓を巣立った者は、われわれ以外にその例なし」との理由により「十二月会」を提案した。さすがに水田教授だけあって名案。ただ韮沢君が「十二月クラブ」とした方が面白そうだと言い出し、それもそうだと結局、満場一致で「十二月クラブ」を会名とすることに決定した。
第二号議案 会則決定の件
かねて検討を願ってあった坂田案について坂田君からその主旨の説明を行ない、これも満場一致で原案通りに決定した。
第三号議案
初年度の役員として各クラスから二名づつの幹事を選出し、更に幹事の互選によって別紙の通り決定した。なお同時に如水会連絡幹事、如水会評議員及び関西支部長の選出をも併わせ行なった。
以上によって会の大綱が和気藹々の裡に決ったので引き続き大広間での宴会に入った。
中村君から開宴の挨拶を仰せつかった望月君が白地浴衣の伊達姿で異彩を放ち、十数名の美妓のはでやかな踊りが舞台一ぱいに拡がる頃には約百名の橋人を擁する大宴会場はあちこちに歓談の花が咲き、懐古の実酒は絢爛たる雰囲気の中に陶然と廻らされた。やがて余興の福引が始まった。三菱、東芝の電気製品、野田醤油の詰め合わせセット、各務クリスタルのタンブラーセット、藤森工業のパッキング使用のハンディシュガー、日本製粉のマカロニ、日清製粉の新製品リブロン、吉富製薬の薬品セット、日産民生提供のライター等々に加え、海外から贈呈のジョニーウォーカー、濠洲みやげのコアラベア、人間国宝製作のこけし人形等数え切れない程の豪華な景品であった。
正に二十星霜の歳月と戦乱の大試練を経てなお不撓不屈の我等橋人の成長のあとを眼のあたりに見る心持であった。
翌三日朝食の折に初年度役員の発表が行なわれ、中村初代幹事長から新年度の抱負の開陳及び麦倉、下田両副幹事長の挨拶があった。吉川副議長の朗々たる音吐により一橋会歌の斉唱後、篠原英夫君の発声によって「十二月クラブ万才」を三唱した。正に盛会、誠に愉しい会合であった。
解散後ゴルフの希望者は樽君のお世話で三井のゴルフ場で残された好日を過し、バス利用の帰京組は湘南の明るい風光を満喫したことであった。
「また二十五周年には是非会いたいね」これが卒直な気持ではなかったろうか。
この総会の福引で、私は韮沢君が豪州からおみやげに持ち帰ったコアラベアを引き当てた。このコアラ君は、最近よくデパートなどで売られている貧相なものと違って本格的なもので、現在でも当家の応接室の飾り物の中心を占め、小さいお客様が来ると必ず抱かれて可愛いがられている。
月例会
二十周年記念大会が終った時、十二月クラブの役員間では、毎年一回程度の会合では物足りないから、毎月十二日に定例の会合を持とうではないかという意見が圧倒的に強かった。果してこのような定例会が毎月続けて開催できるであろうかということに一抹の不安がないではなかった。ところが、この毎月の例会がすっかり定着したばかりでなく、この例会の開催こそが十二月クラブ大隆昌の根源となったのである。
「十二日に逢いましょう」
大東亜戦争の始まった昭和16年12月に国立を巣立ったわれわれは熱海伊豆山において卒業二十周年記念全国大会を盛大かつ模範的に開催、会名を「十二月クラブ」と決定したが、その際「こんな楽しい会はない。毎月十二日に如水会館に集まってますます親睦を深め、お互いに助け合って人間的にも仕事の面でも成長率を高めようではないか。世は共同市場の時代である」という意見が強く出た。そこで大会の席上新たに任命された中村幹事長以下幹事全員はは1月12日如水会館に集まり、大会の残務整理をすませ、幹事会の運営を協議すると共に右の毎月十二日に集まる問題を検討、その結果次のことをきめた。
一、十二月クラブ員は毎月十二日午後六時、如水会館に集まり夕食を共にする。幹事は一組から各クラス廻り持ちとする。
一、その際クラブ会員の中から講師を選び、得意なテーマについて、よそでは聞けぬオフ・レコの実益をもたらす話をしてもらい、大いに質疑応答、意見の交換をする。外部から学者、評論家など招くことも考える。
「有楽町で逢いましょう」ならぬ「十二日に逢いましょう」を合言葉に奮ってご出席ください。地方在住のクラブ員も、 なるべく東京出張を十二日に合わせてぜひお顔を見せてください。 (韮沢記)
毎月十二日に開催される月例会には、別表に記載されてある通り、既に百名に及ぶ方々にゲストスピーカーとしてご登場願った。十二月クラブの会員にお願いすることが建前であるが、時折はいわゆる大物スピーカーにおいでをいただいた。
大平外務大臣(以下職名は何れも当時のもの)、日産の川又社長、興銀の中山頭取、高橋学長、増田学長、NHK解説委員 の平沢氏、民社党の永末代議土、経済研究所の金森氏、東銀の竹内調査部長等々、同期会の講師陣としては誠に驚嘆に値する顔触れと誇ってよいと思う。変ったところでは、ドクトルチエコ女史、邦楽の田辺さん、話し方の江木さん、元横綱の春日野親方もお招きし、時間を超えてお話しを伺えた。
月桂寺での松尾太年老師の法話や、昭和15年卒の石川善次郎先輩の二回にわたる禅のお話しも忘れられないし、又十二月クラブ小唄同好会と共催で、故春日とよ君代、春日とよ君廷両師においでをいただいた春の一夕、素晴らしい三味の音を愉しんだ一刻も印象に残っている。
月例会の思い出は尽きないが、そのハイライトはやはり大平外相がおいでくださった日のことであるといえよう。
大平先輩は、37年11月12日の例会においでをいただいた。この日の関連記事としては望月君が如水会報の38年1月号の橋畔随想に「大平さんなら安心してまかせられる」と題する一文を載せたのでこれを記録して置きたい。
○ ○
大平さんなら安心してまかせられる 望月 継治
大東亜戦争の始まった昭和十六年十二月に国立を巣立った私たちは、同期生約二百五十名で「十二月クラブ」というのを結成している。このクラス会のことは、週刊エコノミストに「一橋大卒のコンビナート同窓会」として紹介され、それが如水会報十月号に転載されたから、あるいはご存知の向きもあるかもしれぬが、恐ろしく逞しい活発な会である。毎月十二日如水会館に集まって楽しく語り合う。出席者はいつも四十名をくだらない。九月に神戸六甲山上で東西合同懇談会を開いたと思うと、十一月四日の一橋祭には紅白ののぼりを立てて家族親睦大会を催す。この大会の参加者は家族ぐるみで九十五名。「きょう国立に見えた先輩のご家族の半分は十二月クラブですね」と高橋学長がお喜びになられた。
この十二月クラブが、さる十一月十二日、大平外務大臣をお招きした。「極度にお忙しい方だから、とても後輩の会などにはいらして下さるまい」と思っていたのに、大平さんをよく存じ上げている十二月クラブ会員農林省の技広君がお願いしたところ「そういう張り切った会ならぜひ出ましょう」とその場でオー・ケー。この気さくな大平大臣の態度にまず驚かされる。念のため、ちょうどそのとき大臣とラジオ対談した経済同友会の韮沢君に確認してもらったが、必ずこられるというご返事。
それでは、と準備に着手したが何しろ五百円会費である。誠心誠意おもてなしするほかない。「大平さんの好物は五目ご飯入りのいなり寿司」という情報に、十二月クラブ幹事長の中村君と事務総長の韮沢君は、その前夜雨中の銀座をあちこち歩いてすし屋に頼んでみたが、そんなおいなりさんはどこでも作っていない。いつもは大平夫人がお作りになるそうだ。ようやく最後にたどり着いた中村君のよく知っているバー、特別に「すし栄」に頼んでつくってもらうことになった。
さて当日、大臣は韓国の金さんとの会談が長びいたため一時間半ほど予定より遅くなったが、しかし私たちに対する約束を守られ、ほかの二つの予定を取止めにして元気な姿を現わされた。それからたっぷり二時間、大平さんは同学の先輩として、いなり寿司を七つも八つもつままれながら、私たちと語り合った。私たちは大平さんのお話に三十回も腹の底から爆笑した、といっただけでいかにすばらしい、楽しい会であったかおわかりいただけると思う。ここにそのすべてをつくすことはできないが、ただ一つだけ私が特に強い感銘を受けたことを述べてみたい。
大平さんはいう。「社会党を国会から抹殺することはできないでしょう。そこにあるのだ。厳然として。だから時間をかけても話し合わねばならない。自民党が辞を低くして歩み寄らねばならない。同様の事が対韓国の問題についてもいえる」
韓国が地球上から消えるわけにはゆかないであろう。消えてしまって北鮮と日本が境を接した場合はどうなるかという考え方にはこの場合触れないとしても、いずれにしろ大平さんのやり方は同じである。それはエリート意識を鼻の先きにぶら下げた政治家としてではなく、一個の人間大平として当然そうあるべきと考えて話し合いをしつように続けているようにうけとれた。数をたのむことなく、また経済的、政治的優位をたのむことなく、常に相手と胸を割って話し合いを続け、協調点を見出してゆかねばならぬという彼のアプロ−チの中に人間大平のあり方がよく分り、安心して政治をまかせられるんだということを強く感じたのである。
お互い人間は各個別々のものであり、しかもそんなに強いものではない。ただ生を肯定する限り、そのような無力の者たちが助け合って生きてゆく以外にやりようがない。しかも助け合うためには、お互い全く別な存在である他者を無視してしまうことなく、話し合うよりほか道がないのではないか。そういうことを大平さんは私どもに話して下さっているように私には思えた。
私は臆面もなく大臣に言った。「大平さん、人間大平のPRが不足してますよ」大臣もいうように、今の政治は大半をマスコミを通じてやっている。しかも三十代の記者の考え方を通してニュースとなって現われてくる。職業人としての新聞記者はただよえる泡のごときものを追わねばならないし現象に惑わされることもある。そういう場合、大臣の言行を批判する基準として人間大平の考え方をもっとよく彼等に理解させておく必要があるのではないか。それはあたかも「ゴルフ・スイングとは何ぞや」という考え方から入ることが、実は多くのゴルフの微妙なテクニックを統一的に理解するため早道であると同様である、と私は大平さんにいったのである。
「総理大臣になった以上、お茶屋遊びとゴルフはやめてください」と池田さんにいい、「その代り二人前を俺がやるよ」といった大平さん、ゴルフにおいても政治と同様の考え方がいかに大切か、一度ゴルフ場で私のレッスンをうけてみませんか。私のレッスン料はワンラウンド百ドルですが、大臣の場合は無料で結構です。
もっとも「一ドルなら払うよ」といった三菱商事の和田一雄は、大平さんを囲む会がすばらしかったのですっかりいい気持になり、その夜如水会館を追い出されてから韮沢たちと一緒に銀座に行き、そこも閉め出されるにおよび、韮沢と目白の小生の家にしけこんでつい午前四時まで話しこんでしまった。こんな楽しい日はそうザラにあるものではない。
大平さん、感謝します。私は日本の政治に希望が持てるようになりました。
○ ○
一橋祭参加
われわれ十二月クラブの仲間は、単に同期生会員間のみの懇親に止まってはいない。
学生騒動で一橋祭が行なわれなかった年を除いては、昭和三十年以降、毎年このお祭りに会員およびその家族をあわせていつも百名以上を国立に動員し、他年次の先輩、後輩と交歓し、このお祭りの隆盛に極めて大きく寄与した。
今や、一橋祭における十二月クラブの会合は、国立パイオニアクラブ、昭和一七年会の集会と共に、その名物の一つとなった感がある。一橋祭に関する思い出も尽きないが、特に昭和四十年のこの日には、当クラブの卒業二五周年記念として、当時の増田学長に母校の紋章を寄贈したことが印象に深い。
十二月クラブと染めぬいた旗に囲まれた当クラブの天幕からは終始拍手と歓声と笑いが満ち溢れ、学内全域にこだまし、国立を訪れたすべての人々がわれわれグループの興奮と歓喜に共鳴した。
この欄では、五十家族、百四十三名が集まった昭和三八年度の一橋祭参加家族大会の記録と、昭和三九年のこの会に初参加された大橋周次君の感激の言葉を併せて掲載したい。
昭和三八年度一橋祭参加家族親睦大会 十一月三日 国立母校において
絶好の一橋祭日和に恵まれ、黄金色の銀杏並木と緑の松林の中にいつもはひっそりと静まりかえっている母校も、今日は訪れる沢山の人々に囲まれ活気づいていた。運動部、研究会、同好会等によるそれぞれの催しも賑やかに、教室の中にも謡曲あり、講演あり、展示会ありですっかり華やいでみえた。
兼松講堂と図書館との間の草地に今年もまた賑やかにひるがえった「十二月クラブ」の紅白の旗は表会者の目をみはらせた。家族連れの会員が続々と集まり、家族同志初対面の挨拶を交わすもの、何年ぶりかなあと久闊するもの、早くもビールのグラスを傾けるもの、焼鳥や団子を頬張るもの等々和かな光景が展開される。
皆それぞれの家族に引っ張られて教室の中の催し物を見に行ったり、運動場での競技に加わったり、中に元気な子供達は トラック二周の駈足をしたり思い思いに楽しい時を過して午後二時、兼松講堂前に集合した。
「家族ぐるみで一橋祭参加」を唱えて昨年三十七家族九十五名を集めた十二月クラブは、今年は実に五十家族百四十三名を国立へ動員した。今年の十一月二日は日曜と祭日が重なったので多数の来場はあやぶまれたにも拘わらずこれだけの参加者を得て世話人一同大喜び。胸章が足りなくなってあわてるという状況。
高橋学長と、予科入学当時の予科主事で特にお世話になった掘名誉教授を中心にして兼松講堂前の階段に整列しての記念撮影。ここもまた昔懐しい場所である。この日は往年の角帽ばかりの代わりに会員の親御さんのお年寄りから学令前の可愛い顔までビッシリ並んで誠に壮観。子供達を前方にならべるのに望月家族親睦委員長や韮沢事務総長が一汗かく。記念撮影が終るといよいよお待ちかねのおみやげ贈呈と福引がはじまる。
中村幹事長司会で望月家族親睦委員長夫妻、和田企画委員長の挨拶が盛んな拍手の中に行なわれる。名誉会員の一人である高橋学長や如水会の菱沼書記長も一きわ高い拍手に迎えられて祝辞を述べられる。
一家族に一個づつ、大きなビニール袋に入れられたおみやげがわたされる。夫人または子供達が受け取りに出るたびに拍手が湧き、持ち切れない大きな包を一生懸命持ち運ぶ子供達に笑いが捲き起こる。この包の中味は会員又は会員在勤各社のご寄贈による素晴らしい品々で一包平均四千円を越えようという豪華版。更に加えて一等真珠のネクタイピン、二等電気ポット、以下盛り沢山の賞品の当たる福引が行なわれる。よくもこれだけのものを集めた各幹事の熱意と会員の協力と各社のご厚意にただもう頭を下げるのみ。笑顔と歓声と拍手のうちにこの行事をおえ、来年再びこの場所につどうことを約して今年の一橋祭参加家族親睦大会も大成功に散会となったのである。(小島 魁記)
一橋祭に参加した十二月クラブ会員からはいろいろと感想なり感謝のことばなどをいただいているが、十二月クラブ会報第七号に掲載された大橋周次君からのお便りを再録したい。
十一月三日(昭和四十年)の佳き日の大学祭に、母校校庭に繰り広げられた十二月クラブの手厚いおもてなしには頭が下がりました。
前日心配した雨は、流石明治節の当日になるときれいに晴れ上り、子供にせがまれて、卒業後二回目の母校訪問を致しました。十二月クラブのほかにも同じようなテントがありましたが、十二月クラブのが最大で、また最大の人数(百七十六名とか)を呑んでいたのには驚きました。こんな世話はほんとに大変だったでしょう。
同期生やその家族は喜んだに相違ありません。小生も参加して寿命が延びる思いをしました。それから小生以上に子供が喜びました。何といっても御土産が大変でした。こんなに御土産を沢山に貰ったことはかってありません。この御土産も同期生の寄付によるものだそうで、よくまあこれだけ集まったものだ、と平素何もしない小生などは一方的に恩恵に与るだけでした。感謝しています。
当日の十二月クラブのパーティは全く一幅の絵巻物でした。本人が余りスマートでないと、逆に奥さんがすばらしい美人だったり、背が低いと、その令嬢がすらりとした上品な娘さんだったりして、大変調和がとれていました。肩を叩かれて振り向いて見ても二十四年目に会ったのでは仲々顔付きを思い出せない場面もあって、これもよいものでした。子供はまたこれがお父さんの学んだ学校なのか、この人達がお父さんの同級生なのか、と父を見直すようになったと思います。
思い起こせば三ケ月繰りあげての十二月の卒業、その場で「諸君、征って参ります」と帽子を振った篠原君の姿を忘れることができませんが、当時想像もできなかった二十四年後に、このように平和で喜びに溢れる会合に参加し、
十二月クラブ会員の喜びを満喫しました。 (大橋 周次)
東西懇談会
十二月クラブの諸行事はすべて愉しいが、そのなかでも最も愉しいものは、何といっても東西懇談会である。 この東西懇談会というのは、当初は、当クラブの会員が、年に一回位は、東西から集まって一夕を大いに飲み、大いに語ろうではないかということで企画され、昭和三七年の夏に六甲山まで関東方が出かけ、山上でのバベキューで気炎をあげたのが最初である。
三八年は徳島で阿波踊りを踊りぬき、三九年からは本格的に家族を加えての一泊旅行ということになって犬山でのライン下り、四十年は蓼科、四一年は三重県の湯の山、四二年は富士、四三年は志賀高原、四四年は西伊豆、四五年は和歌浦と万博、四六年は京都・琵琶湖と既に十回を数えた。
この家族ぐるみの一泊旅行か、わわわれの交遊の深さを更にかえた効果は計り知れないものがある。
奥さん同士が生まれた時からの友達のように知り合い、子供達同志が夜が更けるまで語り合った。蓼科の時には、磯部君のお母さんまでが七三才の高令で参加してくださった。こんな素晴らしい同期会が果して他にあるだろうか?
私は、過去十回の東西懇談会のすべてに参加しているが、毎年本当に命の洗われる思いがし、同時に、企画・準備に骨を折られる軒事の方々に狭く感謝する。
最近は、子供達が大きくなって来たのでこの一泊旅行の企画も修正の必要はあろう。しかし、たとえ子供達の参加が減ることがあっても、何とか毎年続けたいものである。
このような家族族行となるきっかけになった第二回目の徳島行の東西懇談会の記録をご紹介しよう。この旅行には、家族として、牧野夫人、和田一雄夫人、二木夫人が参加され、共々阿波踊りを踊ってくださったのである。
「阿波踊り」 昭和三十八年九月三日 (抄)
神戸での楽しい前夜祭で盛り上った「いざ踊り狂わん哉」のムードは関西汽船神戸−小松島間四時間の荒波?にも些かもめげずに徳島へ上陸。可憐なガイドさんの説明を聞きながら市中見物を経て宿舎松本楼へ。さてひと風呂浴びて後、これまた二木君心尽しの一橋大学模様の揃いの浴衣に白足袋の装いも嬉しく、宿舎での地元如水会支部主催の歓迎会に臨み、支部長たる瞿鑠の二木君ご尊父の心からの暖かいご挨拶を受け、各務クリスタル佐藤丈夫君の好意によるカットグラス芸術品の花瓶を、十二月クラブからの同支部への感謝の印までに中村幹事長から贈呈し、漸く麦倉君が重い思いではるばる運んでくれた労もむくわれた次第であった。
地元を代表してくださった会員の方々との交歓の美酒も名残り惜しく、僅か数分の踊りの手ほどきの後、支部論先輩のご好意で編成された驚くばかり美人揃いの御囃子や踊子さん方、それに既に酒がまわって元気弥が上にも溌剌たる地元出身の一橋学生諸君の参加も得て、総員五十名を越える「一橋大学連」が出現、大提灯を先頭に堂々の陣を敷き、町ぐるみ阿波踊りの坩堝の中に「優勝」を目指して繰り出したその強心臓振りは、われながら驚くばかりで、行列の後ろから心配してついて来た女房連の批評では、只々「寒心」の二字に尽きた由だが、ご当人連中は些かもたじろがず、途中の審査場のいくつかを過ぎる頃には益々自信満々。流石観光都市だけにお情けの小優勝旗をかざして地元会員ご好意の休憩場でアルコールを補給、テレビ中継所も押し通っての奮戦に何もかも忘れて踊り狂った嬉しさは生れて初めての経験で、終了後全員からの異口同音、「来年も又来よう」との言がよくこの実感をあらわしていたといえる。但しその陰には二木夫人をはじめとする有名なる阿波美人の美しさに皆が強く惹かれたことも否定できない。
斯くて宿舎に帰投したのは十一時過ぎ、年甲斐もなき大運動の心地よい疲労と満足の熟睡の第二日目の夜を送った次第である。(和田一雄 記)
寮歌祭参加
寮歌祭と十二月クラブの関係も深いものである。韮沢君が日本寮歌振興会の常任委員として企画面や財務面で重責を負っていることや、私がボート部出身ということで旧い先輩や若い先輩を動員し易い立場にあることもあり、また如水会での実行委員の副委員長を仰せつかったことなどもあって、この寮歌祭には当クラブの組織をあげて応援をするようなことになった。
特に昭和四二年十二月十一日に行なわれた第七回の寮歌祭では、これまでの最大動員といわれている二百数十名という大部隊が出演をし、一橋勢の意気は、正に天を衝くほどのものであった。
寮歌祭関連記事は、如水会報にも多くの頁がさかれているが、こゝでは当クラブ会報第十八号の一部を抜萃する。
寮歌祭で十二月クラブが大活躍、武道館をゆるがす熱狂的拍手
十二月クラブ通信(第十八号)
毎年、秋に催される日本寮歌祭も今年で七回目、何だ彼だといわれながら年々盛んになり、今年は十一月十一日、先日吉田さんの国葬が行なわれた日本武道館で開かれた。武道館は二三千の座席数をもつ恐ろしく広い会場、しかも四方から見おろされる四面舞台なので、素人の演出はとてもむずかしく、各校とも幹事役は大変な苦心をしたが、わが一橋は、石原慎太郎君の企画で、本田如水会理事長はじめ、佐藤尚武元外相、元参議院議長(八十五才)、百瀬結日本ビクター社長、朝海浩一郎元駐米大使ら二百数十名の如水会員が出演、寵城事件のときの斗士、藤本恒雄氏の指揮で、ボートのオール十六本を四方に立て、「長煙遠く」、「東都の流れ」、「紫紺の闇」を高らかに力強く合唱した。一橋の演出は今年も大成功、武道館をゆるがす熱狂的拍手を浴び、当日の夕刊および翌日の朝刊は各紙とも、一橋の演出を、観客の注目を一番ひいたものとして報道した。
十二月クラブは歴史的に寮歌祭に関係が深く、この日も片柳幹事長はじめ十六名が参加し、一橋の中核隊として大活躍し た。中でも中村前幹事長は、如水会寮歌祭実行委員会副委員長として、韮沢君が日本寮歌振興会常任委員をしている関係と寮歌祭本部の仕事に時間をとられる点をカバーして一橋の演出実施の一切を指揮し、当日最大の大部隊を武道館のヒノキ舞台で美事に演技させるのに大きな貢献をした。(以下略)
募金募集
およそ団体の組織活動というものは、その組織の構成員の積極的な参加意識、参画意識によって活発化されるものであるが それにはある程度の財政的基盤が必要である。この裏付けがないと、その活動は停頓し勝ちとなり、消滅してしまうおそれもある。
当クラブでは、いち早くこの点に着目をして、「われわれが現役で、比較的に金を出し易い間になるべく沢山の基金を転積み立て、老後には会費なしでも会合が開催でき、会の運営が行ない得るようにしよう」という目的で第一回の基金募集か昭和三十八年に計画された。
この時の目標額は八十万円であったが忽ち一九五名の会員から総額八八八、四〇〇円が送られて来た。財務委員長は篠原英夫君であった。昭和四一年には卒業二五周年を記念して第二回目の基金募集をすることになった。この時の財務委員は渡辺公徳君であったが、彼の述べた名言が残っている。
日く。「われわれが折に触れて相遇うということが目的である。基金をふやすということのためには何回となく会合が重ねられる。このことが主な目的なのだ。金を集めること、集めた金を何に使うのかということなどは副次的なものに過ぎない」と。
受けとり方によっては随分と無茶苦茶な話であろう。しかし、「使い道は決める段になればたとえ千万円の金でも五分間でも決められる。この際は集める努力そのものに意義があると考えたい。これは皆にも分ってもらえると思う」これがコンセンサスとなった。
第二回目の基金も忽ち是の百万円を軽く突破して一九一名の会員から一、一八〇、〇〇〇円が寄せられたのである。
そしてこの基金はワリコーにょって運用され、その果実をもって卒業二五周年の記念事業としての母校への門標、如水会へのピアノ、アルバム作成補助がなされるなど極めて有効に使用され、なお昭和四六年年十二月四日現在で二、三二五、三八九円の残高を示しているのである。また、この基金の募集業務が基礎となって、現在進行中の如水会館改築準備資金集めにおいても、当クラブは割り当てられた目標を悠々突破し、且つ応募人員でも如水会同期生会で最高位の実績をあげており、誠に心強くも誇らしい限りなのである。
結 び
私は、まだまだ当クラブの各種同好会や委員会のこと、当クラブゆかりの人達のこと、物故会員のこと等々と書き続けたい気持で一杯である。しかし、紙数は予定の枚数を遥かにオーバーをしてしまった。これ等のことについては、改めての機会に書かせていただくことにする。
我々は、皆五十才を越えた。お互いに気持は随分と若いつもりであっても、老境に近づいたといわざるを得ないであろう。
仕事上の壁にぶつかったとき、親友や親族の病没等に遇ったとき、若い人達との間に話がかみ合わず断絶を感じたとき、うたゝ人世のむなしさを想うことしばしばである。
このようなときに、われわれは、当クラブの催しに参加し、当クラブの会報をひもとき、当クラブのアルバムを開こうではないか。多感の青春時代にわれわれは、三年或いは六年間の生活を共に学び、語らい、笑い、怒り、悩み、泣いた。そしてなお且つその後の三十年に及ぶ交友を、今このようにして続けている。
われわれとその家族同志の暖い交わりは、われわれすべてが消滅してもなお続くに相違ない。
私は、このように思いを馳せるとき、人の世のえにしの尊さを覚え、この上ないしあわせを感ずるのである。