第二代幹事長
片柳梁太郎 |
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中村君からバトンを受けたのは四十一年の卒業二十周年記念大会の時だが、前任者には個人のご迷惑を省みず、毎年のように押しつけ押しつけで五年も在任していただいた。 私もその任でないことと、当時の私の仕事上の理由で極力固辞したのだが、これ以上中村君に負担をかけるのも不本意とあって三年以上の任期を越えないこと(実際には四年になってしまったが)を条件にお引受けすることとなった。 すでにクラブの組織と運営については、前任者はじめ幹事、委員諸兄のお蔭で基礎が固まっていたので、何かとやり易かったが、申し継ぎをして見て始めて、前任者がすべてを几帳面に計画し、また記録されていることに感心し、その努力に頭が下った。同時に「これは大変なものを引受けてしまった」という感を新たにした。何にしても私一人のカではどうにもならないと思い、早速総会で選任された副幹事長、クラス幹事、会計幹事のほか、事務総長はじめ各委員長のご就任をお願いし、これら諸兄のご協力を仰ぐ体制を整えた。 さて初年度の四十二年度は恒例のとおり一月に幹事、委員打合せ会を開き、年間事業計画を討議したが、本年度は特に同好会、研究会活動を活発にすること、家族ぐるみの懇親をますます盛にすること、(これは余り実効を挙げ得なかったが)他年次との交流を盛んにすること等を打合せた。 この年は私の在任期間を通じて最も多彩な年であったように記憶している。先づ一月の如水会新年賀詞交換会の席上では、われわれの卒業二十五周年記念行事の一つであるピアノ贈呈式を行い、諸先輩を前にして本田理事長に目録を贈呈し、大いに面目を施した。また七月には増田学長の発案にもとづき、母校にマーキュリーの門標を贈呈し学長はじめ大学当局に大いに喜んでいただいた。爾来、国立の校門を入るとき何時でも我々が贈呈したマーキュリーが先づ目に入り心がなごむ次第である。 またこの年の例会行事も、永末参議院議員、行田勝久氏(リノール油脂常務)、ドクトルチエコ氏、話し方教室の江木武彦氏等、各界の名士を動員することができた。 一方この年のうちに舞踊同好会、たべ歩き同好会、囲碁同好会も発足、ゴルフ同好会も二回に渉って開催、また関西支部の動きも、例会、ゴルフ会を通じ大いに活発となった。 四十三年には、年頭宮崎豊治君をガンで失い、多摩川を望む立川郊外の丘の上の墓地に同君を葬ったのは大きな痛手であった。 この年の新年宴会には若柳師匠に引続いて舞踊同好会の新井、馬場、二見の諸兄が始めて研修の成果を披露し一同を驚かせた。月例会は川又克二氏、望月幸長氏(デールカーネギーコース日本代表)、丸山静雄氏(朝日新聞)、筒井敬介氏(児童文学作家)等の外部講師のほか、石川先輩の禅シリーズ第二回、最後を増田学長で飾った。すっかり行事として定着したバスハイクは雨の中を中津川から相模原へ、また東西懇談会は、これも天候には恵まれなかつたが中牟田国鉄常務理事のお世話で志賀高原に楽しい旅行を行った。 この年の特記事項は三月に第一回ゴルフチャムピオン大会(カップ取切戦)で柴沼君が見事、栄冠を収めたこと、第二回たべ歩き会では下田君の案内で江戸時代から続いている居酒屋、坂本の「鍵屋」を訪ねたこと等であった。また麻生君の高砂委員会も地味な努力を重ねて着々とその成果を挙げはじめて来た。 翌る四十四年度。本年度は東大紛争を皮切りに、学生運動が最も爆発し、母校もまたその例外でなく、学長始め教授の受難の年であった。また母校以外に在職する会員中の諸教授も大なり小なりご苦労な年であった。 この年の新年宴会には、母国で初演のため帰国された塩川悠子嬢(塩川君の長女)を招き、また金井君、鈴木貞雄君の令嬢がピアノと声楽で、会を盛上げ大いに楽しい一時を過した。この年は、前二年がやゝ外部スピーカー中心の観があった月例会を元に戻し、河合君、翠川君、石川先輩(第三回)と会員ならびに会友の薀蓄に耳を傾けることとしたが、渡欧直前の木村増三君の話を聞く会が大雪のため流会となったのは残念であった。 またこの年の一橋祭は学園紛争のため国立で開くことが出来ず、望月君にお願いして神田精義軒の工場で家族懇親会を開き工場見学の後「長生きの秘訣」を実地にご伝授願った。 年末しめくくりの総会はすっかり定着した上野観光閣で盛大に行ったが、一昨年から始めた美術館、博物館廻りが年々好評で、今年も杉江科学博物館長のご案内で、午後の充実した時を過した。また四十一年以来丸三年がかりで取組んだ卒業二十五周年記念アルバムが光永君以下アルバム委員の大変なお骨折で年初に完成し好評を博した。 さて四十五年は万国博の年で、カナダのオンタリオ館副館長として張漢卿君一家が来日滞在し、久し振りで旧交を暖めることが出来たが、同時に万博見物の会員ならびに家族一同彼には一方ならぬご迷惑を掛けた。 この年の新年宴会は再び若柳千種師匠の熱演と三菱商事のお嬢さん方の琴の演奏で幕を切り、月例会には柿括、西城、前田(寿)、中牟田の諸兄がスピーカーとして活躍した。また万博見物を兼ねて東西懇談会を初めて五月に繰上げ、新和歌浦に一泊、張君一家のご歓待を受けて大変楽に会場廻りをすることが出来た。万博に関しては電々公社の主催で万博同窓会という催しがあり、わが十二月クラブもこれに便乗、東京方は霞ヶ関ビルに、関西方は万博会場内の電気通信館に陣取り、テレビを通じて交歓を行うという楽しい一幕もあった。また変ったスピーカーとしては春日野親方を招き角界の裏面あれこれを伺うこともできた。 さてこの年の総会で私の在任は四年間となったので、当初のお約束どおり、中村君の在任期間より一年ではあるがとも角短い期間で辞めさせていただき、バトンを坂田君に渡した訳であるが、思えば何もこれといったこともしないうちに月日が立ってしまい、誠に慚愧のいたりに耐えないが、この期間を通じてますます会員諸兄との友情を深めることのできたことは楽しくもあり、また有難い限りであった。 |