第三代幹事長
  坂田 建樹

 私は四十三年から三年間、前幹事長の下で女房役を勤めていたから毎年の諸行事実施の段取りについては自然に一応会得していた。が然し愈々四十五年十二月の第十回総会で三代目幹事長に選任された時には「新しい大役」として実の所リーダーシップをとる自信は無かった。
 
  初代中村幹事長は五年間、次代片柳幹事長は四年間、この九年間に十二月クラブは生れ育ち、年々充実し、両氏の最高の努力と牽引カによって全く軌道に乗っている我がクラブは如水会年次クラス会随一と誇って誰も異論はないと信ずる。
 
  昭和三十七年に一二三名(一度でも公式会合に出席されたクラブ会員数)が昭和四十五年迄では二二八名に増え、現在登録者二七二名(地方在外者も含む)の八三・五%に当る会員が一度は会合に顔を出している実績を持ち、而も年間を通じて二月の新年宴会を皮切りに毎月の例会、五月の家族ぐるみハイキング、八月の東西懇談会(家族懇親一泊旅行)十一月の一橋祭参加家族大会、十二月の定時総会と恒例行事は各担当委員長、各幹事を中心によどみなく行われて来たそのまとまり、連帯、友情とその発露は本当に一橋以外でも例は少いであろう。
 
  既に前任者が夫々自己の年代を詳しく書かれている通り内容も大いに充実しているのだが、スタートが卒業二十周年記念大会で本年が三十周年記念大会の年とここへ来る十年の差は各人の環境を大きく変えて来ており、従来の行事の延長ではなく、変化に対応した企画の実現が当然要求されて来たのである。
 
  即ち過去を振りかえると、基盤作りと難関克服の初代−成長と対外発展の次代−から環境変化に適応させる時代へと入りつつあるのであってそこで最初に述べた私の「新しい大役」の意味がこの変化に如何に対応してゆくか、将来に向って生きたグループ(片柳氏の言を借りれば)である道を如何に探すかと云うことになる。
 
  扨てその様な任務分析をしながらも四十六年行事として具体的に新企画を出せなかった事には理由がある。
 
  即ち四十六年度は私が最初に迎えた年ながら前述の如く先づ第一に十二月クラブ創立十周年目であること。而も卒業三十周年記念の年であること。加えては終戦直後に結婚された多くの会員諸兄の銀婚がこの年だけでも十七名、前後二、三年間には五十六名もおられる誠に祝福すべき年に当っているのである。
 
  更に別の理由として四十五年秋に開始された如水会館改築準備資金の募金活動がある。この募金には我々如水会員として、模範年次会としてどうしても強い使命感を持たざるを得ないし、前任者からクラブ挙げて協力態勢を取って来ている為、総じて四十六年度の重点指向は当然次の三つに決断を下した次第であった。即ち
(1) 募金に賛同、積極的に割当の完遂をはかること。
(2) 東西懇談会をクラブ十周年記念大会として盛大且有意義に行い、映画記録を保存すること。
(3) 十二月総会は卒業三十周年記念大会として一泊とし、絶対多数の参加者を確保すること。記念事業に文集を作ること。


  先づ(1)はこれたけでも会員にとっては、平年と違って可成の負担になる。平均三万円の寄付申込だが、四十六年十二月廿日現在の実績としては、望月継治君の一〇〇万円を筆頭に十万円以下の方が十二名、五万円以上の方が五十名もあって合計一七四名約八二三万円となっている。篠原英夫募金推進委員長以下九名の推進委員の努力のお蔭げであって勿論我々に割当てられた目標額(二四八名、七四四万円)を裕に突破している金額である。この募金は引続き四十七年七月迄続行となっているので四十七年度からはクラブ幹事会が受け継いで不断の努力を続けているので其の後も人数、金額は更に増えている。
 
  (2)は東京方が大挙して西へ出向いた京都・びわ湖・宇治川下りのデラックス旅行で八月の暑さをものともせず、十周年記念大会にふさわしい愉快なものであった。新幹線−国鉄冷房バスーびわ湖上の芳月楼と予算も大きくふくれて会員一名一万六千円と豪勢型だった。宿舎の宴会も一次会は、四国の二木君親子を先頭に全員が阿波踊りを踊りまくる処で幕を降ろし、続いて子供大会や奥様大会と二次会に発展し、果ては旦那と奥方合同大会となれば、一方ジュニアー達も数人が語り明かすと云う全く過去に例のない思い出の旅行となった次第で、全巻三十分ものにまとめた八ミリ記録映画が完成(カラー)保存されている。
 
  (3)卒業三十周年記念大会は熱海の観光閣に五十九名参集、第十一回定時総会と共にフリースタイルで終始飲んで話して動いて飲んでを繰返し三十年前の若さそのもので夜のふける迄歌声は続いたのだった。熱海観光閣は上野のそれと姉妹店、二十五周年の時と同じ様な昔風の古めかしさを守っていてくれたが、上野同様改築となるそうで此所にも十年史の一区切りが感ぜられるのである。
 
  尚この総会でクラブ会費の値上げの件が承認されて一五〇〇円となった。又和田一雄君から緊急動議として「老後対策委員会」設置の提案がなされ、賛成演説も出る等これからの歩む道に関心の深いことが現実となって来た。
 
  以上は三大重点行事の粗描だが、毎月の例会やその他のニュースとしては次の様な事があった。
 
  例会はゲストスピーカー六名(内会員三名)で講演内容は硬軟相交え色取々、日銀調査局長の西川君が公定歩合引下げと平価引上げについて公式としては情勢熟さずNo回答だが世界的インフレ進行退治には必要と三月例会で論ずれば、四月例会では東銀取締役調査部長竹内一郎氏がドル不安定問題の裏側をのぞいてそこに鍵があると指摘、円の切上げが行われる事を示唆した五ケ月後遂に八月のドルショックとなり続いて国内的には変動相場制→年末円切上げ実施と大きく日本をゆさぶった事であった。その間九月例会には早速アメリカ銀行東京支店長渡辺公徳氏からドルショック前後の大揺れ国際金融市場裏話しを聞くことが出来た。又前半の異色は成城大教授大友立也氏のアージリス研究発表であり、従来の経営学を根本からその思考方法に於て大転換を要求するアージリス概念は短時間にはとても説明不可能とし乍らも好評で次の機会を希望する向が多かったのである。後半は日本銀行貨幣標本室嘱託、日本貨幣協会副会長郡司勇夫先生の古銭慢談(牧原志郎君が同協会に凡そ二十年も関係しているつながりで)、更に十月例会では日本麻雀連盟理事長手塚晴雄九段に麻雀あれこれと両者最高の薀蓄を傾けてのお話しは興味深々たるものであった。
 
  同好会としては卒業三十周年記念ゴルフ大会を同大会前日大熱海国際カントリーで行い、純銀の取切りカップは高橋勝君の手に収められた。その外五月八日には舞踊同好会のおさらい会が国立小劇場の舞台で立派に演ぜられ、九月には塩川悠子さんの国内各地リサイタルが大成功裏に終り、十一月二日には小唄同好会の温習会が第一証券ホールで盛大に行われた。
 
  而してこゝに全く悲しい報告を書かねばならないが、二月廿六日、三宅駿一君の葬儀が玉川斉場で、十二月十三日、松本信喜君の葬儀が信濃町千日谷会堂でいづれもしめやかに取行われ、一年間に二回我が友の弔辞を読む羽目になった事は誠に痛恨の極みであった。
 
  以上四十六年は、前述の理由で歩んだ道に方向転換は無く、又対外的にもこれと云った足跡は残していないが、年間を通じて内祝い的雰囲気で十年目を皆さんと共に過し得た事は本当に私にとって印象的である。
 
  明けて四十七年、第二年目に入って正月、今年の事を考えた時、昨年からの継続事業でやらねばならぬことがまだ沢山残っている事に驚いた。即ち如水会館改築準備資金募金の仕上げをすること、記念文集の完成発刊を本年中にやり遂げること、故松本信喜君遺児教育資金の募金と贈呈を完遂すること等である。のみならず円切り上げ後の日本経済は長期に亘る高度成長に終止符を打ってデフレ型に移行し、輸出鈍化、国内需要減退、生産制限カルテル結成と各基幹企業にとっては大きな変化を余儀なくされ、春斗の五ケタ賃上げ要求と相俟って企業収益の圧迫は経営者をして異質の努力を強く要求される様相に移って来たのである。十二月クラブ会員が各方面の重要且責任あるポストで活躍している現状を思うと外では日本の為に心身を磨り減らし、家庭では子女の教育、就職、結婚等に気を配る(勿論無該当の方もおられることだが)ダブルパンチに出合っている様なものだ。
 
  昨秋末、名簿作成の為資料を返信して頂いた調査では会員中結婚適令期の子女を持ち相手を物色中と報告された家族数が五三、その人数は六五名に達したが今後益々増えることは確かだ。但し男性が僅か八名で後は全部婿探しなのだ。
 
  そこで従来の高砂委員会を強化して二十名に近い委員を正式委嘱し、第一回会合を二月二十一日に開催して基本路線を組み一人でも多くの良縁をお世話しようと、麻生委員長の手許に資料を整理保管し、又新規申込を受け付け各委員は頼極的に活動に入った。
 
  然し結婚は相手のある人間同志、一冊の文集を作るような具合には行かぬもので、やきもきしても、御節介過ぎても駄目。地道な努力を期待しよう。
 
  こんな雰囲気が盛り上って来たのも自然の勢いだが、之を援護すべく今年例会は家族参加出来る様企画して来た。
 
  二月十日の役員会で定めた方針は、毎月例会を各種同好会とタイアップした行事とする事にし、而もレジャーによる息抜きを主眼にして家族を動員させた。
 
  先づ二月の新年宴会は例年通り、スターホールで、五十六名が集ったが中でも大野正庸君と川野辺静男君の二人が公式会合に初めて出席(即ち十一年目)同出席延人員の記録を更新して合計二三〇名になった。続い三月はボーリング大会、四月は国立劇場で歌舞伎を観賞、五月は相模湖畔に一橋新艇庫を見学し乍ら散策に、船遊びにとバスハイク、六月は東京名人会を聞く会と総べて家族ぐるみの例会で今年の特徴となった。
 
  さてこれ迄は十二月クラブの回顧録だが、これからは些か将来の展望を試みて見よう。
 
  この為には現在会員の年令構成が少しく参考になるので名簿から調べて見た。
              
 明治39−大4生  18名
 大5年生(55才)  13
 大6年生(54才)   46
 大7年生(53才)   118
 大8年生(52才)   57
 大9年生(51才)   7
 不 明        13
 合 計     272                         
 
  上表で見る通り、主力は大正七年生で40%強、前後生れを加えれば82%となる。従って三年後には大部分が五五才を過ぎ、五年後には大正九年生でも五六才となる。一般にはこの五年間で停年退職を迎える訳だが、我が十二月クラブは現在でも半数以上の会員が取締役以上の役職(自営も含む)であり、今後もどしどし重役誕生を期待出来るので停年の延長と併せて考えれば五、六年では職の面は未だ変動小といえるだろう。
 
  むしろ人より企業の方がその間の変化が激しいのではないか。最近の情勢では大企業程、公害や高成長の等みの影響を受け、新設、合併、新商品開発と人のポストを変える要素が多くなって来ている。
 
  一方家庭の子女の面からのぞいて見ると、同じく名簿から集計した会員諸氏の息子、娘の生年月数は次の通りである。
 
  昭和21生  男8 女14
    22生  男24 女12
    23生  男24 女32(本年大学卒)
    24生  男31 女31
    25生  男21 女30
    26生  男28 女22
            計142
    27生  男17 女27
    28生  男19 女23
    29生  男7  女13
        計189
 
  昭和23年生が本年大学卒で社会人に仲間入りした連中だが、昭和21−26年の女性合計合計一四二名は全体の六〇%を占めるから、今後五年間ではそれ等の子女が結婚して親許を離れると見られるのである。
 
  男性の場合は、就職−結婚に至る迄には女性よりずっと遅れるから、昭和21−29年の合計一八九名(七三%)が全部上のモデルになるにはまだ十年はかかるであろう。
 
  以上二つの資料に基けば、親父たるもの、この十年間ではまだまだ働かねばならぬし、環境もそれを許してくれない様だ。自適生活を送れる人はごく少いと云わねばならない。
 
  従って還歴を迎える迄の健康保持は特に必要となり、それには若さを失わない様専念することが秘訣である。
 
  かくして十二月クラブでも家族的行事、而もジュニアーを交えての行事は手を替え品を替えて行なってゆき度いものである。
 
  展望と云っても余り将来の事は意味ないが所謂老後対策と云って共同生活の企画を云々する意見もある。然しこの種の考えは有志だけでまとめるものであってクラブ全体の目標にはならない。年令を加える程実行力が減退しロばかり達者になって動きが衰えるから、二、三年先には十二月クラブでも事務局を置かないと大事な事務能力が発揮出来ず単なるクラス会に留まってしまうかも知れない。ともあれ我々は今迄に十二月クラブ活動を通じて心のふれ合う友を沢山持ち得ている。そして肩を組み合う友情は家族ぐるみにも発展している。同好会であれ、勉強会であれ、趣味の会であれ、その場を絶やさない事が必要であり、親父たるもの努めて顔を出して大いに活用すべきである。