七組 佐藤 丈夫


(一)
 「十二月クラブってずいぶん盛んなようだネ」  

 私も何人かの一橋人からいわれたことがある。まことに、交友こまやかで有名な如水会においても、わが十二月クラブはその最右翼のクラス会の一つと自他共に許すものであろう。

  わずらわしい処世の巷でそろそろ責任ある立場で苦斗するようになっていた頃、多感な青春時代を共に過した学友の間にこそ、家庭とならんで、人生のオアシスがあるということで組織されたのが十二月クラブだった。現に、家族ぐるみで、何の気がねもなしに親みあい、仕事の面でも助け合っている現状は、さわやかな、ほほえましい人生の醍醐味というべきだろう。
 
  この間に、歴代の幹事長をはじめとして何人かの仲間が、正に驚異的(?)な、そして尊敬おくあたわざる情熱をそそぎこんできてくれたことを私は知っているつもりだ。特に仕事の面で、やや紆余曲折を重ねた私の場合、折にふれて得た貴重な人生の真実にふれた感銘の数々は今も鮮かに私の心のアルバムのハイライトとなっており、今后もその数を増すことであろう。

(二)
  しかしそこには十二月クラブのアキレス腱とでもいうべき問題がある。「十二月クラブは一部の連中の…」という批判、あるいは「必ずしも全クラスメートの会とはなっていない」という悩み・・・、これらのことは残念ながらわが愛する十二月クラブに関して時に耳にすることである。
 
  人生とは何か?  
 
  昔学園で私たちが夢中になって探求した命題が、ここに具体的な様相を呈しているというのが、この日 頃の私の感慨となっている。
 
  私自身は、といえば、時に熱心に、時に批判的に・・・というように、十二月クラブに対する忠誠はゆれ動いてきたようである。そこでは、かなり特異な私個人の社会的境遇の変遷が契機の一部の原因となっているようである。(この点、定退その他を控えて、これからの会運営にあたって参考にすべきキーポイントの一つがあるとおもわれることは後述する通りである。)それだけに、かえってここでの問題については案外核心をつく見解を持ちうるのではないかとおもったりしている。

(三)
 会に消極的な仲間にはまず地方在住者とか不幸な境遇にいる人たちがいる。しかし、より現実的に問題となるのは在京者でなじめずにいる仲間である。要約すれば、後者が会にとけこんでくれる日には、前者も例外ではないと信ぜられるからである。
 
  これらの仲間は要するに会に対して不和感なり違和感を持っているわけである。そして、私にはその気持がわかるようにおもわれるのだ。
 
  妙な話をさしはさむが、私はこの頃、広く産業界を訪問する仕事に従事している関係上特に痛感するのだが、各社、そこの人たちにはいうにいわれない独特の臭味があることを発見して、そのたびに慄然とすることが多い。その人たちは気付いていないようだが、それは社会というものの犠牲になっていることを象徴するにおいなのである。このにおいに対するあわれみを伴う違和感は私をはなはだしく困惑させる。  
 
  もう一つ、会に熱中して名簿をみたりする時、忘れた名前とか、思い出せない風貌に直面することがあって、同じく慄然とすることがある。その数が多くなれば、それは会に対する不和感となろう。
 
  おもうに、消極的な仲間はこれらの例に似た違和感なり不和感を十二月クラブについて感じているにちがいない。
 
  たしかにここには、十二月クラブと一般社会体制、および個々と全体とを混同した矛盾を指摘することができるだろうが、一方世の中は理屈ではないという簡単な真理を忘れるわけにはいかない。
 
  ここに十二月クラブに内在する問題があり、私が批判的になるのはこういうことを理屈っぽく考えざるを得ない時なのだ。


(四)         
  十二月クラブはどこへゆくのだろう?  
 
  いやでもこう書かざるを得ないが、実はそう力む必要はあるまい。
 
  十二月クラブは公的なものではないのだからだ。それは手練手管も、欲得もない人生のオアシスであるべきものであり、オアシスは私たち一人一人が自ら発見すべきものだからである。  
 
  「君子の交りは・・・」という如水の語をおもう。あるいは「そこに山があるから・・・」というように、そこにオアシスがあるのだから、友よ、そこから汲み、そこに憩おうというだけのことではないか。何せ人生は短いし、友情ということは人生の宝の一つなのだから。そこで、仲間全員がこの貴重なオアシスに集えるよう舵とりを、その折々にふさわしく年々の幹事諸兄にお願いしたいのである。

  この点から、現在としては、在京消極会員対策、ついで明年あたりから不幸な環境にある会員(来るべき定退老および物故会員家族を含む)ならびに地方在住老対策にカを入れて頂きたいと切望する次第である。

 今迄にもこれらのことが折にふれて議題となっていたことは承知しているが、もうそろそろ現実化しないと、短い私たちの人生、ひいては会の生命が失われてしまうのもそう遠い将来ではないのだから。

 いずれにせよ「ぼくたちだけの会」だということを大切にしようよ。