初めて東西懇談会に参加したのは四十年夏の蓼科高原の時だった。今回は独りで参加し、次第によっては次回から家族連れも考えようとの肚だった。
新宿駅集合から始まって、列車、バス、ホテル、宴会などのすべてが、行を共にしてみて、それなりにデラックスで計画通り円滑になごやかに運び、幹事の骨折りの上に一般参加者はアグラをかいていられる程の呑気さであり、家族ぐるみの懇親の情景は誠に微笑ましくまた快く、非常に楽しい旅だった。これならば次回は是非家族を連れて参加したいと秘かに心に決めたことだった。
蓼科には古い想い出がある。予科の頃の夏休だったかと思うが、余り遠い昔なので記憶も定かでないが、水田洋君をリーダーにダスキン(城所)、お嬢(鈴木)、芝崎君などとハイキングしたことがある。今は亡き芝崎君のコネで当時の第一銀行の蓼科山荘に一泊後八ケ岳縦走を計画したのであった。山荘は多分親湯から稍々上った附近だったと覚えているが、高原の環境にマッチした落着いた風格あるものだった。四周の景観も素晴らしく、自然の懐に抱かれて、多感なりし青春の胸奥に痛くロマンチックを覚えたのは私独りであったろうか。
当時は日支事変がもう始まっていたかもしれないが、まだ豊かさもあり、携行した兵糧も豊富且つ血気旺んでもあって、八ヶ岳縦走など何するものぞと思っていたが、好天の上殊に暑かったせいか意外に疲れ、天狗岳に登っただけで意気地なくもアゴを出し、遂に衆議一決、縦走をギブアップし赤沢小屋を経て佐久側に下山するというショートカットに敗走の憂目をみてしまった。稲子牧場を抜け引摺る足で松原湖附近に辿りついたように記憶している。高原の夏を郭公がしきりに啼いていた。
こんな想い出があったので、この東西懇談会には特に心を惹かれ参加を決意したのかもしれない。あれから三十年経た蓼科山はあの時と同じように静かに優しい姿で人間共の仕草を見下ろしていた。懐深く入り込んで来る文明という名の怪物の我儘を黙って見すごしているかのようだ。自然は何時も美しい。こんな句を作ってみた。
湖 見 え て 郭 公 の 声 あ と さ き に 小 李
この翌年の懇談会は湯の山だったが丁度この日一ケ月の渡米旅行に飛立ったので残念ながら参加出来なかった。次の富士五湖の時念願の家内同伴で参加した。はじめ家内は気が進まなかった様子だが、私の説得に負けて随いて来ることになった。仲間に入ってみると次第に楽しくなり、いつとなくグループの誰彼と親しげに談笑するようになっていた。連れて来てよかったとホットしたものだ。富士五湖では旧作だがこんなのがある。
囀 や 四 山 湖 よ り 夙 く 覚 む る
藍 深 く 一 湖 を ひ そ め 杉 落 葉
湖 の 藍 ふ か く て 昼 も 蝶 と ば ず
富 士 映 る 方 の み 豁 か れ 鱒 の 湖
湖 の 空 星 が き れ い に 明 日 は 母 の 日 小 李
爾来志賀高原、伊豆堂ケ島と続けて家内の他に娘も加えて参加したが、その都度愉快な想い出多き旅となっている。
昨年の紀州白浜と万博見物にはこちらも別の計画を一年越にもっていたので参加しなかったが、今年の三十周年記念懇談会は矢張り娘と家内を同伴した。家内は北海道旅行の直後だったので遠慮気味だったが、娘はそんなことにはお構いなく一人ででも私に随いて来ると大変積極的だった。結局のところ又ぞろ三人で顔を出すことになったのだが琵琶湖畔の雄琴温泉の懇親大宴会は勿論、その後の親爺組、家内組、二世組と別れての二次会など大変楽しいものだった。奥様方の面前でホールで娘や他の二世達とゴーゴーを踊ったなどは酔余の興とはいえ一世一代の痛快事に属するものだろう。今や家内も娘も十二月クラブ東西懇談会は出席するものと決め込んで彼等の楽しい年中行事の一つのように思い定めているらしい。天下太平である。
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