鈴木 栄喜

  文集の編集を引受けていざ手掛けてみると、原稿が仲々集らず気ばかり焦って何で簡単に引受けて了ったのかとその軽卒さが悔まれ、二十五周年時のアルバムを手掛けた光永君からその苦労話を聞いていただけに身に泌みて思い知らされる始末。それでも坂田幹事長、片柳前幹事長他各クラス幹事諸兄の熱心さにほだされ支えられて何とか此処まで漕ぎつけることが出来たのは感謝に堪えない。

 その間、海外在勤者に原稿用紙を同封して投稿を依頼すると、早速折返しマドリッドから塩川君(原稿到着第一号)、メルボルンから鷲尾君(両君ともその後帰国)、ミラノから小林(悦)君、トロントから張漢卿君が寄稿してくれたのは嬉しかった。又締切間際になっても予定稿数に達しないので最後の追い込み督促にと原稿用紙を添付して四十五通の私信を出したら、二十四通の応募があり、当初の期待数を突破した許りでなく文集の頁数も分厚くなって反って予算の方が心配となる破目となったのは嬉しい悲鳴とも云うべきか。

 広辞苑を傍において校正し乍ら一字一句丹念に読返してみると、諸兄の多感な青春時代の想い出やらその後の多彩な人生経験に魅了され、ほのぼのとした友情と連帯意識に心温る共感を味うことが出来た。

  此の文集が経て来し三十年の記念許りでなく十二月クラブの今後の友情の絆として諸兄の座右の書とならんことを期待し乍ら……。

  昭和四十七年十月         鈴木 栄喜