第二期 昇格運動時代
(専攻部設置より大学昇格まで)
(明治三十年---大正九年)
 ベルリン宣言及び一橋会成立---この時運を顧みず、この一橋の情熱を顧みざる文政部當局の時代錯誤的秕政は、再び一橋に校長排斥運動を惹起せしめた。
三十一年五月小山校長が文部次官に任ぜられ帝国大学書記官清水彦五郎がその後任となつたが、同校長が躍進一橋にふさはしくないといふ確信にもとづいて本科三年を中心とする排斥運動が起つた。
出身教授在京卒業生の奔走、渋沢、小山の調停により学生の主張は貫かれ、八月この事件は解決された。
これを流水事件と称する。

翌年三月
大蔵省参事官駒井重格校長となり、
学生の希望を容れて
専攻部規則を改正して修業年限を二年に延長、
更に学科課程改正を行ひ、
一橋の内容は充實して
商業大学論の萌芽は漸く成長しはじめた。

翌三十三年七月一日、
渋沢栄一還暦並に授爵祝賀会における渋沢の演説
こそ一橋商業大学の主張を明示したものであり、
それは躍進一橋の溢れる意志の表明であつた

初代専攻部主事
水島銕也

当時海外留学中の出身教授も多数に上り、
海外商業教育の實情を寄せて大学論を鼓舞してゐたが、
三十四年二月、
石川巌、石川文吾、神田乃武、瀧本美夫、
津村秀松
福田徳三、志田金甲太郎、関一
の八教授がベルリンに会して
昇格問題につき凝議發表した「伯林宣言」は、
問題の進展に拍車をかけた。
同年六月に、
駒井校長の手によよて申請中の、
専攻部卒業者の商業学土号認可が發令された。
しかし同年十二月九日
この一橋の恩人駒井重格は現職のまま卒去した。
昇格運動前史を飾る忘れ難き名である。


 一橋の対外的自己主張は学生生活にも重大な転換をうながした。といふより、学生生活の充實がこの対外的主張となったのでもあるが、開校以来二十数年を経て発展を続ける一橋の生活の中に、学生間及び卒業生間の統一的機関の必要が痛感されるに至つた。三十一年一月に同窓会が設立され、学生側でも
三十五年十一月学生千五百が講堂に集って一橋会發会式を挙行、翌年三月には機関誌「一橋会雑誌」の創刊を見た。



左から創刊号同窓会記、ベルリン宣言(明治三十四年四月号〕、
商業大学論の端を發した福田徳三の「欧米商業教育近況」(明治三十一年十一月号)、一橋会雑誌創刊号。


全一橋の統一と一橋会の誕生は一橋生活にとって劃期的であった。
高商学生は「高商の縞ヅポン」 といはれて都下有数のモダン学校であったが
「吾人屁理屈を知らず幸にして元気あり」をモット一とする六々党が組織されて
縞ヅボンを殴ってまはったのはこの頃であつた。
キャプテン・オヴ・インダス、トリ一の烈々たる理想を謳った校歌「長煙遠く」が採用されたのも三十六年である。
一橋会成立以前における一橋の中心は端艇部であった。
それは全一橋のスポーツであり唯一の綜合機関であつた。
毎年四月三日、
櫻花咲き誇る墨堤に挙行される高商端艇大会は東都の華であり、
一般の練習に開放された旧艇四集の乗艇券は悉く未明に取去られ朝三時には既に一枚もなかつたといふ。
だがこの興隆の歴史の中に、
明治四十年十二月三十日
銚子遠漕中の朱雀号が悪天候のため寶山沖で遭難し二名の犠牲者を出した
悲劇を忘れてはならない。


  申酉事件---明治三十九年商科大学設置建設案が第二十回帝国議合を通過し、目的の地の近きを思はせたが、問題は対帝大関係において極めて複雑であり前途の楽観を許さなかった。
 すなはち、商科大学は学制上帝大内に設置すべしとして一橋の獨自性を否定せんとする意見が有力であった。
 四十一年に至って帝大に経済学科が新設され、七月には内閣更迭により一橋に比較的好意的であった柳澤次官が去って小松原文相の下に岡田次官が事に當るに及んで、形勢は悪化した。
学年試験を終へて暑中休暇となったが有志学生はなほ炎熱の帝都を奔走百方努力を続けた。
しかも九月新学年に入つても橋畔に暗雲低迷して人々の心は闊けなかつた。

四十二年議会に商業大学問題起るや、全学生は文相及び両院議長に対する請願書提出を決議し松崎校長にその傳達方を依頼したが、校長はこれを拒んだのみならず学生の分に非ずと罵倒した。ここにおいて従来校長の態度に慊たらなかった学内輿論は俄然尖鋭化して校長排斥運動となり、主謀者として学生数名が退学処分を受けた。だが弾圧はかへつて反抗を生んだ。渋澤商議員等の慰撫斡旋に一應鎮った学生の憤懣も、文部當局があくまで商業大学獨立の要を認めず帝大法科大学内の一分科としてこれを設置せんとする意向を棄てないのを見ると再び燃えあがり、四月ニ十四日改めて第一回学生大会が開催となった。佐野、関、瀧本、下野の四教授は辞表を提出し教授講師の大多数は出講せず学校は殆んど休校状態に陥った。四月二十九日帝大教授会は商科大挙を帝大法科大学内に設置することを決定した。文政當局と一橋はつひに正面衝突のやむなきに至り、問題は社会問題政治問題となった。五月五日松崎校長の辞職が聴許されて文部省専門学務局真野文二が後任となったが、翌六日には「学制上より見るも不統一のあれば」の理由を以て専攻部廃止の省令が下つた 栄光ある三十年の歴史は汚された。
校長に投げつけた硯---

学生が退学処分を受けた最大原因は、
松崎校長の処決を促すべく直談判中、
憤激の余り、
卓上の硯を校長の頭部に
投げつけた為だといはれる。
写真は
今本館貴賓室に保存してある
その硯箱。

一橋は闘争のために敢然と立上つた。
同日直ちにクラス委員会が開かれたが激論数刻に及んで決せず、同夕刻には神田基督青年会館において大隈重信、島田三郎以下の諸名士による民政者糾明の大演説会が開催されて、世論もまた沸騰して一橋を支持した。
七日再度の委員会も、隠忍自重捲土重来を主張する
専攻部本科三年と本科二年以下の強硬論との対立となり、
翌八日の委員会で強硬派勝ち、光輝ある滅亡、
吾人は一橋を斃してこれに殉ぜんと、総退学は決議せられた。

五月十一日、
全学生は母校門前に参集して校を去るの辞を朗讀し、
マ一キュリーの帽子を椀ぎ地に擲って
母校に袂別した。         クリックしてご覧下さい。



基督教青年会館に本部を設け退学後の学生の連絡を計り、
爾後の當策を議したが、各地商業会議所、保証人会、商議員の三者奔走し
漸く解決の曙光を見るに至り、
その慰撫斡旋により五月雨繁き二十四日全学生の復校は成った。
六月「専攻部は今後四年間存置の文部省令となり、
申酉二歳にわたる紛糾も一段落をつけた。
そして明治四十五年三月には、
文部省令第九号によって
専攻部は永久に存続することになったのである。


 昇格の前夜---一橋の天地を震駭せしめた台風はすぎ去った。しかし波瀾なほ治まらず事態は何等好転したのではなかった。与えられたものは悲しき現状維持にすぎない。希望へ近づき得ざる焦燥、現實への不満は一橋にかへつて沈滞をもたらした。 四十三年福田徳三は七年握りに慶應より−橋に帰り彼の主唱にかかる一橋経済学会が生れた。一橋会制度改革も断行され専攻部靡止令も撤回されたが、一橋の意気なほ揚がらず経済学会も例会を開くこと三回にして消滅した。大正二年奥田文相は再び帝大合併問題を取上げ、商業大学論の禍根を綜合大学主義によつて一掃せんとした。しかし一橋は輿論の支持を受けて年来の主張をすてず、文相もつひに案を撤回し、一橋は再び現状維持の平和を得た。


 大正三年八月病躯よく一橋のために尽力せる人格者坪野校長(左写真下)職を辞し、一橋は創立四十年にしてはじめて
母校出身の校長佐野善作を迎へた。
これより先、関一は生徒の留任運動を振り切って大阪市助役として去った。
かつて福田徳三がミュンヘンより送った高等商業教育論に端を発した
大学昇格論は、十数年の後ここに佐野校長を迎へて再燃した。
専攻部制度の改革、門戸開放、課目制度の改制と制度は充実の途をたどり、
福田、村瀬、関、佐野、津村の五博士
を生んだ一橋は大正五年に
三浦、左右田の二博士
を加へ彼等の学風は一橋の前途に希望の光を与えた。
一橋の黄金時代は来た。大jE四年の新大学令は「一橋商業大学」実現の近きを思はせた。

昇格を議す

−昇格の気運を背負って昇格及び昇格後の学制を審議する四教授、
右より上田貞次郎、堀光亀、佐野善作、三浦新七。
欧洲大戦は日本資本主義にとつて飛躍的発展の契機であった。
メイド・イン・ジャパンの世界的進出は同時に
キャプテン・オヴ・インダストリーの雄飛でなければならぬ。
大正七年の高等教育改善案、新大学令、

そして九年四月、
一橋は二十年の苦闘の後に、
大学昇格の歓喜に浸ることが出来たのである。

     高商の三博士とその講義
 人物は左より左右田、福田、三浦、の三博士、
 
 左は福田博土講義
 左下は三浦博士講義、
 福田博士の講義には本郷より徽章をかくして盗聴に来るものもあった。