第三期  大 学 昇 格 時 代
昇格より国立移転まで
大正九年---昭和五年

一橋は大学となつた。しかしそれは単に看板の塗りかヘであつてはならない。「官立大学」となることは一橋にとつて一つの手段であり、それ自体が目標なのではない。それがかかる意味の自覚を離れて因襲的地位となり「のれん」となつた時に一橋の沈滞ははじまつたのである。



学制改革嘆願書
 
大学にはなつたけれど中味はもとのままで、福田博士の所謂「研究者の研究のためにする自由自治自由の団体」ではなかつた。
理想の大学を求める学制改革の声は發せられ、
大正十一年三月には本科一年の主導によつて大改革が行はわたが、
理想はなほ遠かつた。
昇格による三科分立は一橋会の改組発展となり、
本科会予科会専門部会生れた。
他方金子、大塚、孫田、渡邊、内藤等の小壮教授は欧米に留学して新知識の吸収に努め、
これらの人々によつてメンガー文庫ギールケ文庫がもたらされた。
また学内では福田、三浦、左右田、上田のスタッフが商学の殿堂の建設に奮闘したのてある。
 だが昇格直後の意気は永く続いたのではない。
大正九年戦後恐慌による日本経済の沈滞と共に一橋もまたその力を失ふのである。
日本経済の運命はつねに一橋の途を示してゐる。
恐慌後のそれは立直らんとして立ち直ららずつひに昭和二年の金融恐慌、
昭和五年の金解禁に続く慢性的恐慌へと没入する。そして



メンガー文庫購入記念写真
メンガー夫人を囲んで、右より大塚金之助
金子鷹之助、渡邊大輔


一橋も、大戦末期から成長した社会問題への関心を部分的に表はしながら全体としてはもはや下降の途をたどる他はなかった。
一橋における社会的意識の劃期的出發は十二年五月、S・P.S(Societe de la Pensee Sociale)の誕生である。
そしてこの期の太い線を引いたのは関東大震災であった。大正十二年九月一日、激震と猛火は学園を焦土と化した。

大震災に崩壊した本学--- 左上、焼失を免れた校舎の工兵隊の爆破焼け跡全景。

学校は十一月末日まで休校となり、学園の復興と震災学生救援とに努力したが、これが互助会と癸亥文庫を生むことになった。更にこの時の情報交換に資した一橋時報が基礎となって十三年六月には一橋新聞の發刊を見た。



またS・P・Sの労働学校創設を忘れはならない。
十二月一日から授業は開始されたが、
一橋の旧校舎は三井ネ一ルと図書館を除いてはもはや使用に耐えず、
これを機として十三年四月予科は石神井に、
昭和二年には専門部が国立に移り、
五年には学部も国立に移って学園は一橋の故地を棄てた。
都会を離れた一橋の運命は、
その後しばしば「国立移転功罪論」として論ぜられるやうになる。
学制も昭和元年と三年の変更があつたが根本的問題には触れず、
学生側改革論者も昭和三年を境に消えて行った。
ただ昭和二年以来研究団体化したS・P・Sのみが實社会の空気を一橋に注入した。
慢性的不景気と就職難の深刻化の中に一橋は大学としての使命を忘れて国立簿記学校時代となるのである。