第五期 研 究 所 設 立 時 代
五月事件解決より現在まで
昭和十一年〜十六年

粛学
白票事件は既成大学化した一橋に対する若きジェネレ一ションの反撥であり、
老朽教授会といふ人的機構に向けられた反抗と破壊は
新しい学問の建設のためであらねばならなかった。
二・二六事件が
日本の新しい成長期のために不可避的な苦悩であったとするならば、
白票事件は
一橋にとってまさにそのやうなものであった。


土曜会生る(昭和十年十月十九日)

昇格以来の恩人
佐野善作の退場はかつての
矢野二郎のそれの如く、
新しき発展のための犠牲であった。
かかる破壊を眞に建設的ならしめるための準備が
「火消し役」三浦新七の使命であった。
嵐が去った六月三日、
三浦学長は訓辞に先立って
天地神明に対し黙祷を捧げた。
この日学生大会は紛擾解決の声明を發し、
学園は「粛学」の合言葉のもとに苦しい前進を始めた。




「粛学」その名は美しく、その途は遠く苦しい。
人々はその美しさにあこがれ、しかもその苦しさに疲れる。
かうして「永遠の精進」という別名が、疲労をカムフラージュする道具となつたとき、
一橋は再び沈淪の淵に臨むのである。
だが日本の歴史は止まることなく進展を続ける。
二・二六、日獨防共協定、国家総動員法、支那事変、
そして日本は戦時経済へ突入する。
統制の強化、東亜新秩序の建設、大学もまた戦時態勢の整備を要求される。
  
再 建 
十一年十二月三浦新七は火消役の任務を終へ
上田貞次郎が再建の重責をになって第三代学長となった。
再建の基礎としてまづ教授会の「総親和」が求められ、
それは十三年一月の一橋論叢創刊、
十月の杉村元助教授の学位論文通過となって現れた。 
教授側の「金曜会」学生側の「土曜会」が
再建のための輿論の温床として生れたのはすでに十年の晩秋であったが、
続いて、十一年四月には本科学術部が全学的な一橋学会となり、
輿論は更に全学的学制改革へと進んだ。
予科では十二年一月に現行学制批判の声があげられ、
それは文化部,運動部の対立の犠牲となって一度挫折したが、
学科改正委員会設立を経て十三年一月部分的改正を見た。
十一年十一月の予科新聞再刊も予科における再建過程のメルクマ一ルに他ならない。
専・養改革運動は十二年十月當局の頑迷に多数の犠牲者を出したが
十一月井浦主事の就任により
一月学制改革調査委員会が組織され十月には一応の整備を終へた。



十三年三月大陸行の途上吉林丸甲板における上田学長

研究所設立  
進展する戦時態勢が大学に課したテーマは「時局と大学」であり、
一橋はそれと同時に再建の課題として受取らねばならなかつた。
一橋の解答は東亜経済研究所の設立であつた。
十四年三月上田学長の満支旅行につぐ諸教授の大陸出張等によって示された方向は、
七月故各務謙吉氏の五拾萬円寄附、
十月研究設立委員会へと具体化し、
十五年四月東亜経済研究所の蓋あけ、各務財團認可となった。

下の写真・上から
「上田コース」を現はす新聞・
病床の絶筆「貧乏無暇依病始獲暇」
・上田貞次邸大学葬
・高瀬新学長就任式場え

だが上田学長は
建設半ばにして
盲腸炎のため五月八日逝去し
、一橋は悲哀に包まれた。
十三日
冷雨注ぐ橋畔の大学葬に
故学長を送つた学園は、

残された課題遂行のために
悲Lみの中から立上らなければならなかった。
 研究所設立は
、一橋の生くべき方向を
東亜雄飛に見た
橋人上田貞次郎が、
かかる飛躍の中心点として構想したものであった。

それは東亜新秩序建設に應ずる一橋新秩序であつた。したがつて、六月第四代学長として高瀬荘太郎が学園総動員を強調して立つたときも、この方向は微動だにしなかつた。敏腕の新学長は研究所の財政的機構的基礎づけのために就任後間もなく東奔西走して十一月四百萬円の奨学寄附財團の設立を計画を發表、更に大陸派遣学生募集、十二月には研究所官制通過といふ難事業が遂行された。学園再建の重責と戦時下大学の使命、この二つの綜合として一橋が世に示した途への、出發の基礎は成ったのである〔

学園新体制  粛学の困難と時局のめまぐるしい転変の中に学生大衆は再び放心状態に陥つた。土曜会も消え、一橋学会もまたニ度の改組に無気力となり、一橋が冬眠的存在に化した頃、十五年九月、文部省の校友会改組修練組織要項交附によつて予科会の改造は必至となり、それは一橋会全体の改組を導いた。時局の波が修練強化を必要とするといふことから社團法人一橋会解散といふ論理的帰結は出て来ない。解散を當然のもののやうに受取つたのは、不意討を喰った大衆の狼狽を示すにすぎない。社團法人は時局の必然としてではなく大衆の無関心によつて失はれたのである。九月修練組織委員会設立以来半歳にわたる討議を経て、遂に十六年二月十一日社團法人一橋会解散総会において学長を会長とする報国團組織が満場一致可決された。学生の団体としての誇りをわれわれが先輩から繰返して教へられ、われわれもそれを誇ってゐた「一橋会」は官製団体となつた。
  


 そして「組織よりも運用、形式よりも實質」と幾度も強調しなければならなかった程、それは組織的には後退した。ともあれ、東京商科大学一橋会学部報国團は誕生し、十六年五月一日その結成式が行はれた。常盤教授が総務部長に就任し、強引な前進はまづ全学生会食制度の形をとった。それは無為徒食的学生を学校に吸収するための政策であったが、彼等の反抗は「生括に余裕を」の声となり、次に無言のサボタ一ジュとなった。しかも学生側主脳部は政治的であるには余りに理想主義的であり、政治、理想現実の三巴の相反は、暑中休暇直前に幹事会総辞職を惹起した。
(左写真は,本科会総会

獨ソ開戦、日米関係悪化、と切迫せる国際情勢は、学園の臨戦体制を要求した。七月すでに各部合宿・団体旅行中止の指令が發せられ、八月七日には在京学生を招集して報国隊仮結成式を行った。九月杉本教授の総務部長就任となり忘れられてゐたゼミナール中心主義の強化確立が制度的には實現した。同時に学長を隊長として一元的な命令系統を有する報國隊が本格的に組織され、労働力補充のための出動準備を整へた。あはただしく強化されて行く学園臨戦体制は、十月十五日に至って決定的な戦時色を加へた。
(左写真は新体制委員会)

「大学学部等の在学年限または修業年限の臨時短縮に関する勅令案」「昭和十四年法律第一号兵役法中改正法律改正に関する勅令案」が枢密院本会議で可決されたのである。われわれのヽ卒業は繰上げられて十ニ月二十八日となり、翌年二月には入営と決定した。学園から戦場へ、われわはこの出發に當っても一橋学園に対る肉親的愛情を棄てることは出来ない、いな、六十余年の歴史にかち得た闘争と建設の体験を誇らかにも主張し世代がそれを汚さないで前進する祈るらう。学園の前途は、われわれのそれと同じく、なほ多事である。

(左写真は一橋会解散総会)



報国隊編成及び徴兵猶予短縮の掲示