(白 票 事 件

(兼松講堂前の学生
演説、円内は問題
の發端となつた
杉村教授近著研究会
における杉村助
授の講演。)


(白票事件写眞)    上から記者團と会見する杉村助教授及び常盤専門部教授、教授会 開催中の本館に向って「長煙遠く−」を合唱しつつ前進する学生、
図書舘の塔には 「一橋を死守せよ」「醜類を一掃せよ」の大旆が掲げられてゐる、
兼松講堂を埋めた学生大会、芝生のクラス会、食堂のクラス会.
次ぎの写真は左右田博士の墓前に事情報告する塾生及び如水会館に凝議する学生。


 白 票 事 件
それは生命体一橋の一つの脱皮であつた。
満洲事変以来漸く立ち直りつつあった日本経済界もまた
今や新しき段階に突入せんとしてゐたのである。
一橋の長い沈淪は小壮の決起によって破られた。
それはかつてのやうな対外的抗争の華やかさはなく、
内部的暗闘の醜状暴露にすぎないともいへる。
だがそれらは共に一橋の新しき生長のための必然的な苦悩であつた。
杉村助教授の学位請求論文「経済哲学の基本問題」が
七月の教授会においてニ十一票中七票の白票のため不通過となるや、
同助教授は「通過せぎりし顛末」を明らかにした序文を附して論文を出版し、
山口・村松助教授以下一橋出身の豫専小壮グル一プこれを支持して
所謂「教授團」と正面衝突するに至つた。
九月新学期に入り、学長及び教授團対助教授側との交渉紛糾を見た学生は、
九月十八日に第一回学生大会を開き助教授側を支持した。
教授側も更に釈然組と非釈然組とに分裂し一橋の混乱その極に達し、
盟休のうちに学生大会は続行された。
十二月ニ十一日つひに佐野学長は辞表を提出、
全一橋の視線をぴて三浦新学長が「火消し役」として山形から登場した。

五月事件
全一橋は新学長への大きな期待をもって抗争を中止した。
積弊根絶の責任をになつた三浦学長は
学内人事の一新を行ひ、
又講演や予科の講義に出講して
学問的向上の気風醸成に努めた。
しかし事態は些かの前進を示さず、
十一年二月十四日三浦人事に不満を持つ十四教授
(堀光亀、高垣寅次郎、本間喜一、木村恵吉郎、
渡邊孫一郎、内藤章、高瀬荘太郎、井藤半弥、
岩田新、渡邊大輔内藤濯、金子弘、
阿久津謙二、山田九朗)
の連袂辞表提出へと悪化した。

このとき若き日本の生みの苦しみは
二・二六事件となって爆發した。

学園も徒らなる杭争に時をすごしてゐることは許されない。

 三月こ橋人
平生釟三郎
が文相となってこの焦慮の中に一沫の安堵を与へた。

(左の写真は三浦学長就任式)

如水会主催、佐野、三浦新旧学長送迎会

 われわれはかかるとき
予科に入学した。
春なほ浅い小平に一橋寮の
第一回寮生となり
連夜のスト一ムにおびえつつ
学園の危機を説ききかされたのである。
四月に
三浦学長は事件解決案を提出したが
辞表組これに対抗して策動、
五月事件となった。
学生大会は再開されて学長支持を決議、
一橋寮でも「辞表教授の策動を排撃」する決議を行つた。
如水会も動き、
つひに岩田教授が学長の勅語誤読問題を理由として辞職、
次に問題の人杉村助教授、高垣、本間両教授の免官が發令された。しかもなほ堀、内藤以下十一教授の辞表再提出となり新学年の授業不可能となったが、六月一日に至って渡邊大輔、金子弘を除いて全部白紙復校となって、
ここに事件は一応片づいたのである。

   杉村 広蔵         高垣寅次郎


       

本 間 喜 一     岩 田  新     渡邊 大 輔      金 子  弘
                    
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 聲     明

紛擾茲に解決

一橋の更生は
学園に集ふものゝ双肩に課せられたる責務であり
同人の不断の努力に待たねばならぬ、
吾人は爾今小我を捨て大我に就き
広く且つ深く時代の趨勢を察知し
近来一般的に韓落せんとする大学の覚醒を促し
真に
其の称呼に値する最高学府の確立に向ひ
全幅の努力を捧げんことを期す
 
 
昭和十一年六月三日

 全一橋学生大会
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