ヴィーン・ブダペスト・デプレツェン
ー海外旅行報告−
3組 水田 洋
1.
この三都市のほかに、コダーイの生地ケチュケメートと、貴腐ぶどうワインの産地トカイを訪ねようという、例によって欲ばったプランは、最初からつまずいた。
まず、7月の予定は、新型肺炎サーズ(SARS)のたたりで参加者が少くて流れ、その余波でコストをさげるためにブダペストニ泊を一泊にした。
8月に実行しようとしたら、ヴィーンのホテルが国際医学会のなにかで満室だという。
9月に決行ということにはなったのだが、直前にドナウ川が渇水で小型船しか航行できないといわれて、鉄道に
きりかえなければならなかった。
それでも鈴木貞夫団長の苦心のおかげで11名プラス添乗員という編成ができあがり、成田空港の出国者の洪水にあきれながら(自分たちもその一部分であることは棚にあげて)9月13日午前10時30分、オーストリア航空で、ヴィーンにむけて出発した。
ところが食事がすんでまもなく、トイレットが不調になり、ついにまったく使えなくなったのである。ぼくにとっては二度目の経験だから、それほどめずらしいことではないのだ。座席への帰りには座席の照明が作動せず、ステュアーデスの希望どおりに、オーストリア航空本社あてにクレームをっけたので、ついでにトイレットにもふれておいた。
日本人ステュアーデスなら、その場であやまってすませるのだろうが、本社あてにクレームを求めたのは面白かった
(日本支社から回答)。
ヴィーンははじめに3泊、最後に1泊で、クリムトの絵を見ることを中心に、かなり欲ばった。ベルヴェデレ宮殿、分離派記念舘、オーストリア絵画舘では、日本人ガイドが要領よく案内し説明してくれたが、ここで時間をとったうえに、抵抗文書館で1時間あまり講義をきいたので、あとは駆け足になった。この文書舘は、ナチスの迫害の記録の保存と展示のためのもので、ぼくはシュタイナー教授がこれを作りはじめたころから知っている。
シュテファン教会もシェーンブルン宮殿も、外側をのぞくだけ。のぞくだけでもカーレンベルクの丘の上からは、ヴィーンを一望にと思っていたのが、レストランの増築が展望の邪魔になった。
中にはいったのは、ハイリゲン・シュタツトのベートーヴェン・ハウスとホイリゲ(新酒ワイン)酒場と伝統的なヴィーンのカフェ文化を継承するカフェ・ツェントラールだけである。このカフェは、知識人の集会所みたいなところだったから、シュンベーターやヒルファデイング、あるいはかれらの教師であるベーム・バヴェルクやヴィーザーなど、経済学者も労働価値論争などをやっていたかも知れない。
ヴィーンには、地下鉄の駅を含めてアール・デコの建築物が多いので、車窓から見えるものを次つぎとガイドが指さしてくれた。そのついでに、時間的理由でぼくが省いたカール・マルクス集合住宅の説明もあり、この世界最初の労働者集合住宅が、観光名所になっていることにおどろいた。
話が前後するが、ヴィーン見物の最初につれていかれたのは、自然主義建築家(名前は忘れた)の住宅で、たしかに観光客は集まっていたから名所なのだろう。ぼくには全然おもしろくなく、近くの壁にユダヤ人迫害の記録を見たのが思わざる収穫だった。
もうひとつ、明治初期に伊藤博文などが教を請うた須多因先生(ロレンツ・フォン・シュタイン)の記念碑を見るこ
とが、大学内の工事のためにできなかったのは、残念だった。
音楽の都とはいえ、シーズンではないので、これははじめからあきらめていたが、偶然に、ホテルのとなりのコンツェルト・ハウスで、モーツァルトのアンソロジーをシュトラウスの付録つきで、きくことができた。
2.
ヴィーンからブダペストへの鉄道に乗ったので、一泊ではあるが時間に余裕ができた。
目標は丘の上の観光、とくにムンカチの絵である。
ハンガリー人ガイドが、奇妙なアクセントの日本語ではあるが、ていねいに説明してくれる。
「死刑囚」(パリのサロンで金賞)の説明に、ぼくが文句をつけた。「それはただの死刑囚じゃなくて、オーストリアからの独立運動家じゃないだろうか。」ところがガイドには、自国の歴史についての知識がないのだ。
しかしかれはもうひとつの、かれにとってやはり有史以前のことについて懸命に努力してくれた。それは日本で全集も出ている哲学者、ジェルジュ・ルカーチの旧居を訪問しようということである。
さぐりあてたドナウの岸のアパートは、アカデミーの文書舘になっていて、かれの書斎はぼくが、1962年にかれにあったときのままだった。
ブダペストから東へ、ハンガリー第2の都市デプレツェンまで、途中でコダイの生地ケチュケメトへ回り道をするので、まる一日かかった。デプレツェンは、第2の都市といっても、第1のブダペストの人口が百万であるのにたいして二十万だから、ちいさないなか町の感じである。
したがってホテルも、四つ星ながらかなりおちる。
ここをえらんだのは、カソリック国のなかのプロテスタント都市だったからだが、一夜の宿ではどうということはなかった。ただ、夕方になると教会前(したがってホテルのまえ)の広場のベンチに市民があつまってくるのが印象的だった。
翌日は日帰りでトカイの酒蔵へ。40年前にきたときは、国立のワイン研究所に案内されたが、こんどは全部が民営化されていて、そのひとっの酒蔵で説明をきき、何種類かの試飲をした。ここで準会員の皆さんからいただいたアス5の酒は、もちかえって飲んだところ、なかなかのものであった。
デプレツェンからブダペストへは、往路とちがって、ホルトパージの国立公園を通る。
世界遺産に指定された典型的なプスタ(ハンガリーの草原)で、木立さえ見えず、ときどき羊や豚の群にあうだけである。馬車で案内してくれ、民族衣真の騎士が馬術を演じてくれるのだが、世界遺産ということでどの位観光客をよべるのか疑問である。ぼくは馬車にゆられながら、56年のハンガリー事件のときには、ソヴェート軍の戦車がここを驀進したのだろうと考えていた。
ブダペスト発午後6時のヴィーン行特急、レハール号にまにあわせるために、すこし急いだ効果があって、逆にブダペストの市内をのぞく余裕ができたのだが、このレハール号にはがっかりした。10年ぐらいまえに来たときは、観光客用食堂車が準備をととのえていたのに、こんどは季節はずれのせいか、ふつうの急行にふつうの食堂車である。もっともがっかりしたのはぼくだけだから、いいとしなければなるまい。
翌日の東京行オーストリア航空は、午後2時35分だったので、それぞれ買物をしたり、映画で名物になった観覧車を見にいったりしてすごした。
今回の参加人員11名の内訳は、12月クラブ正会員2名、準会員5名、その他4名であった。